第137話 兗州・穏やかなお別れ

鄄城けんじょうの庭園、池に映る水亭の二階では少女と五人の男が沈黙していた。

「皆、意外と臆病だな」

その一言に五人は視線を交し合い、やがて押されるように夏侯惇元譲かことんげんじょうが口を開く。

「臆病ではなく、慎重なのです」


そう言って机の上に置かれた一枚の布を見下ろした。

そこに記された文字は滲んでいるが、豪族の田氏でんしの印はやけに明瞭である。


「たしかに田氏は我らに通じていましたが、この書簡は罠、偽造だと思います。

筆跡は誤魔化され、開門は濮陽城東門を指定し、入城はあなたを指名している……。

東門には、敵を閉じ込める仕掛けがあるのです。

こんな危険な誘いに応じようなんて、つまりその、どうかしてますよ」


「私がどうかしてるのは、私が一番よくわかってるよ。

慎重になるのも大切さ。でも、もしもこの内容が本当だとしたら?


攻城戦もなく城を落とし、呂布りょふも捕らえられるかもしれない。

その千載一遇の機会を、慎重な判断をした私たちは自ら捨てる事になるのだが?」


とたんに夏侯惇以外、皆、唸るように深い息をつき、迷い始める。

悪鬼のささやきは続く。


「それに私は、東門の指定は逆に幸運だと思ったのだがね。

罠とは言え、壁の中に脱出できる隠し扉があるのだろう?

東門だからこそ、万が一の時は逃げる事ができるじゃないか。


なにより今の時点で、私たちはこの話を怪しみ、警戒している。

私だって、この話をまるっと信用しているわけじゃない。

騙される覚悟はもうできている。


田氏が我らを招き入れる誘いが、本当ならばそれでいい。

そうでなければ、罠から逃げればいい。それだけではないのかな」


「それは、そうですけど……」

元濮陽城城主の夏侯惇は、一人抵抗を続けるように渋る。


「ですが、あの扉は城外ではなく、城内へ向かう通路なのです。

敵の巣窟へ侵入する事になります。

そもそも、陳宮ちんきゅうが東門をよく観察していたら、壁の違和感に気づくでしょう。

そして隠し扉を見つけ通行止めの工事でもしていたら、その時点で終了ですよ」


「その時は君たちに助けていただくしかないね」


「……濮陽の門は、金欠で基本的に木製です。補強で部分的に鉄を使っていますが。

ですから燃やせば、なんとかなるかもしれませんね」


「ふむ、了解した」

「まだこっちは了解できません。もしもこれが罠だとしたら……」

表情を曇らせ、できるだけ不安を催すように話す。


「助ける前に、敵に囲まれて一網打尽にされるでしょう。

または幸運にも東門から脱出できても、敵地の真っただ中へ潜入するわけです。


どちらにしても生存率は、ほとんど無いのでは?


透明にでもなって、姿を消さないかぎり、生きて脱出は不可能だと思います」


そう断言すると、一時は迷ったような周囲の者も頷いたので青年は自信を持ち、相手がどう返答するのか待った。

しかし相手の答えに、皆、戸惑う事になる。


「私もそう思う。万が一の時は、姿を消すしかないだろうさ」


まるで幻術道士のような言い草だった。

だが、姿を消す方法を具体的に聞けば、その単純な内容に逆に呆気にとられた。

まるで子供の悪戯である。


にもかかわらず、夏侯惇を除いた四人がその案に賛成してしまったので、田氏の誘いに乗り、濮陽城へ向かう事になってしまった。



約束の日、深い森に白々と光が差し始め、夜の穏やかな殻が剥がされていく。

約束の時は、夜明けだった。もう、時間はないに等しい。

……自分でも、しつこくてイヤになるな。

そう思いながら、まだ薄暗い闇の中で、青年は少女に声をかけた。

相手もすでに察しているのか、苦笑いを浮かべて問い返す。

そろそろ怒られるか、冷たくされると思っていたが、思いのほか緩い反応に安堵し、図々しくもまた頼みだす。


「やはり、濮陽城に入るのはやめませんか?

実は昨晩、嫌な夢を見たのです。不吉を感じて、心配になりました」

「へえ。どんな夢を見たのかね?」


「あなたが半分になる夢です」


そう言われて、少女は青年を見上げたが、またすぐに茂みの奥の濮陽城へ視線を戻した。


「そりゃあ、特殊な夢だね。捕まって、腰斬刑ようざんけいにでもされていたのかい?」

「それが、半分の状態でも快活でした……」


少女はククッと笑い「それはそれで気持ちが悪いな」と答えた。

「まあ、覚えておくよ。だが、私は占いなど信じないけどね」

「占いではなく、嫌な予感です」

「わかったよ。まあ、気を付けて行ってくるさ」


青年はここでようやく、自分の願いは叶えられないのだと、やっと悟った。

……思えば自分は頑固で、よくこの人に無理を聞いてもらってきた。

だがいつもそうではないという事を思い知れたのは、とても重要な事だと思った。


「……わかりました。どうか、お気をつけて」

「ありがとう。私も君の武運を祈るよ」

少女は森に同化するような深緑の長い袖なし外套を纏っている。

その隙間から手だけを出し、拱手した。

青年はハッとして、少し前のめりになった。


「そういえば、私は運がとても良いらしいのです。ですから、私の武運をあなたに譲ります」

少女はキョトンとして、相手を見上げる。

「どうやって?」

「わかりません。……言葉と気持ちで」

そう言って、念じるように拱手を返す。

「ふふ、ありがたいよ。私は神様よりも、君の加護の方が信じられるからね」


いつしか場違いなほど清々しい暁が二人を眩しく照らしていた。

少女は新しい一日の始まりを寂し気に横目で見て、また、相手に視線を戻した。


「名残惜しいけど、そろそろいかなきゃ。そう心配するな。また会える」


少女がそう言うと、青年は両目からぽろぽろと銀色に光る大粒の涙をこぼしたので、珍しく慌てた。


「驚いた。なぜ泣く?私が適当な事ばかり言うから怒ったのかね?」


「いえ。私は、思い出しただけなのです。

あなたがいることは当然で、その姿を見ることは日常だと思っていたのです。

だけど、それは違うのだと、いつも失いそうになる時に思い出すのです。

もっとあなたをたくさん、よく見ていればよかったです……」


「それはそれは、どうもありがとう」

少女は優しさと友情を込めて礼を伝えた。


「もしもあなたが閉じ込められたら、すぐに東門を破壊して助けますから、きっと待っていてくださいね?」


「え?いやじゃ」

少女は突然、夢から醒めたように真顔に戻ると即答した。


「門の破壊なんて、早くても二百を数えるくらい、かかるではないか。

そんなに待っていたら、それこそ死んでしまう。


陳宮が罠の逃げ道を塞いでいたら、それはもう、仕方ない事だ。

君はなんの罪悪感も持たなくていい。

無理をした私たちの事は忘れて、君も皆も、好きに生きればいいのさ。


だから門の破壊はゆっくり、無駄な犠牲を出さないように指揮しておくれ。


それと、私も君を大事に想っているよ、元譲げんじょう殿。

ふたたび君の瞳の中に戻れるように、かならず最善を尽くそう。

だから絶対に無茶はしないで、自分を大事にすると約束してほしい」


つづく

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