第131話 兗州・兗州奪還の第一歩~程昱の場合・范にて~

程昱ていいくがお供二人を連れて出発する前に、幸先の良い出来事が起こった。

呂布りょうふ軍から降伏してきた兵士が貴重な情報を教えてくれたのだ。


今日にも、反乱に加担しなかった二城、東阿とうあ県とはん県を攻撃する予定だという。

陳宮ちんきゅうが東阿を攻め、氾嶷はんぎという者が范に派遣されるらしい。


さらに幸運な事に、この二城は鄄城けんじょうから比較的近い。

軽装の旅服で駿馬を飛ばすと、半刻もかからず范に到着できた。

襲撃の目標となっているとは露知らず、住人たちは穏やかに、変わらぬ日常を過ごしている。


大通りを抜けて城門に着くと、早速、范の責任者である県令けんれい靳允きんいんへ面会を申し出た。


……県令がここまで重要人物になるとは思わなかったな。

地方の役人や豪族との付き合いは、陳宮一人にまかせっきりだった。

これからは私たちも、日頃から彼らに気遣うべきだ……。


そんな事を思いながら応接の一室で待っていると、靳允が緊張の面持ちで現れた。

程昱は丁寧に拱手すると、相手も深い礼を返した。


よく見ると、靳允は青い顔色をして、小さく震えている。

程昱が心配して声をかけると、彼は血の気の引いた唇を開いた。


「程昱殿。実は……私の家族が、呂布に囚われてしまったのです……」

うめくような、疲れ果てた声の告白だった。

「私は、どうしたらいいでしょうか……?」


「それは、なんと……」

……酷い話だ。だがもっと酷いのは、もう手の施しようがないという事だ……。

程昱はきっぱりと即断したが、とても即答はできなかった。


……そうか。彼は、寝返らなければ家族の命はない、と脅されていたのか……。

しかし可哀想だが、人質にされた夏侯惇かこうとん将軍でさえ、運良く救助されただけで、本来ならば犯人と一緒に韓浩かんこう殿に斬られていたのだ。

将軍でさえ、そのような扱いなのだから……。


靳允の瞳には、今にもこぼれそうな涙が揺れている。

その哀しみの光を見つめていると、程昱の心にもじわじわと、どうにかならないものか、という気持ちが広がってくる。


……いや、物理的に無理なのだ。万が一、私事で軍隊を動かせるにしても、鄄城へ依頼して到着するまで時間がかかる。

なにより、肝心の家族の隠し場所がわからないのだ。

氾嶷軍に対抗する態度を見せた瞬間、殺されてしまうだろう。

そして、そんな事をしている間に、東阿も攻められてしまう……。


一つ、小さなため息を知らぬ間についた。

……私は、非情な男だという事だ。

程昱も気落ちし、重々しく口を開いた。


「ご家族の事は、私も、胸が痛みます……。

同時に、あなた大きな勇気と素晴らしい知恵をお持ちの方なのだと、心底、感銘も受けました。


ご家族を人質に取られても、呂布に協力せず、この城を明け渡さなかった。

とても、常人にはできない選択をされたからです」


その瞬間、靳允は答えの真意を悟り、声を上げずに涙をこぼした。

程昱は思わず口を閉じ、反射的に慰めかけたが、すぐに自己嫌悪した。


……私が見捨てろと言ったのだ。その私が慰めるなんて、偽善者が過ぎる。


程昱は、彼のすすり泣きを聞きながら、ふたたび、静かに話しはじめた。


「あなたは、呂布という男を、鋭く見抜かれていたのです。

彼と組めば、たしかに一時期的には家族が救われます。優位にも立てるでしょう。


ですが、その安易な選択は、そのうちあなたの含めた一族全員と、范の住人の破滅に繋がる、そう予測したから、あるいは直感したから、選ばなかったのではありませんか?


今一度、呂布を観察してください。

彼はその場の勢いだけで、考えがない。

そして武勇の評判が高いのに、袁術、袁紹から拒否されてきました。

これは彼の性格に、大きな問題がある事を感じさせます。


彼は兗州えんしゅうを強奪はできても、運営、維持する事はできないでしょう。


陳宮ちんきゅうという謀略家がついていますが、彼もそのうち呂布に振り回されて、疑心暗鬼に悩まされるはずです。


そして陳宮もまた、曹操そうそう殿を裏切った男です。

呂布にも裏切り癖がありますから、彼らが心底信頼しあえるはずはないのです。

この二人の下で、あなたは正しく、安心して働けると思いますか?

彼らが、世を平穏に導き、民のために仕事をしようとする人物だと思いますか?」


靳允の目に少し力が戻り始め、その様子を見ながら、話を続ける。


「逆に、曹操殿の事を考えてみて下さい。


あの方は、知略と武勇、両方の才能を持ち、法律や政治にも明るい。

この尋常でない能力は、おそらく、天から使わされた人物だからだと、私は思っているのです。


あなたが范を守り抜けば、曹操殿を大いに助ける事となり、将来においても、多くの民を助けた一人となるのです。


どうかよく考えて、ご自分の道と、仕えるべき主君を決めていただきたいのです」


……しまった。つい推しすぎたかもしれん、と思いながら程昱が言い終わると同時に、靳允は顏を上げた。


「私は決して、裏切りなどいたしません」

彼はまだ涙を流していたが、その奥に宿った決意の光は揺らぐ事はなかった。


程昱は感謝を述べて深々と一礼した。その気持ち以外は、封じた。

……靳允殿への恩は、私も一生、忘れてはいけない……。



やがて、呂布軍、氾嶷はんぎが近くまで来ているという報告が入った。


……一歩遅かったら敵に先を越され、立場が逆になっていたかもしれない。

程昱は今さらながら、背筋を寒くした。


靳允はさっそく、この氾嶷をどうすればいいか、程昱に相談をした。

程昱は彼と話し合いながら、急いで作戦を練った。


一つ、靳允が敵の将である氾嶷を呼び出し、隠した兵で彼を刺殺する。

二つ、その間に程昱が騎馬隊を指揮し、范に通じる橋を落とす。

そして城を厳重に守り、今日以降、敵の侵入を防ぐ対策をする……。


その計画通り、靳允は無事に氾嶷を倒した。

そしてすぐに城と街の警備を整え、官吏を使って住民たちへ説明をした。

おかげで混乱することなく人々も兵士に協力し、自分たちの街の防衛に力を入れた。


程昱とお供たちは、借りた騎馬隊と共に、倉亭津そうていしんという船着き場に似た大きな橋を落とした。

この処置により、将を失った氾嶷軍はもとより、のちに駆けつけた陳宮軍も范に近づけず、引き返したのであった。


対岸側から橋を落とした程昱たちは、范の騎馬隊に手を振って別れの挨拶をすると、次の目的地である東阿へと急いだ。


つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る