第127話 兗州・呂布との遭遇 その一
「かっ、
副官は荷台が重くて苦痛だからか、迫る恐怖に参っているからか自分でもわからぬまま、今にも泣きそうな顔で上司にうめいた。
彼と同じように、騎馬隊十五名ほどが輜重の荷台を曳いている。
それ以外の兵士たちは、すでに後発の
それがまた心細さを倍増させる。
「だから今、逃げてる最中でしょうが」
と、彼の横で同じように荷車を曳く夏侯将軍が答えた。
「誰かが、最後尾を担当しないといけないんだぞ。
こんな絶体絶命の状況で、まっさきに指揮官である私と副官の君が逃げてたら、恥ずかしいでしょう。
でも、兵法によると、指揮官は最後まで生き残るべきらしいけどね。
しかし今の私は、それに従わないのだっ。
ま、私が死んでも、しっかり者の副将の
後の事を任せられる人がいると安心だ。
そんなわけで私の部下になったのが、君の運の尽きだね。
君には申し訳ないけど、死ぬも生きるも、私と一緒さ。
最期まで頑張ろうじゃないかっ。あははっ」
なぜ笑ったし?と、副官はすこし憮然として思った。
だが、不思議とさきほどまでの恐怖が緩和されたような気がする。
……それに、この人の言っている事も、わからないでもないな。
こんな絶体絶命のおとり役を部下に任せて逃げるなんて、たしかにそれもとても苦痛だ。
そして、最期まで頑張ろう、という言葉がやけに心に残っている。
……そうだな。戦場にいるんだから、私も上っ面だけでなく、心から覚悟をしなくちゃいけないや。
いや、戦場じゃなくても、人はいつ死ぬかわからないんだ。
どうせ死ぬなら恥ずかしくないように、私もできるだけ頑張ってみよう。
開き直りかもしれないが、それでも窮地で元気が湧いてくるのはありがたく思えた。
「将軍、すぐ後ろに、敵軍が迫っておりますっ」
駆けつけた斥候の報告に、
矢が届かない距離で「
その下では、遠目にも輝く鎧に身を包んだ将軍たちが集っている。
審議、しているのか。
それは、そうだろう。
目の前の状況は、明らかに不自然なのだから。
輜重を曳くのは十五人ほど、しかも全員、軍服という軽装、いわば無防備なのだ。
罠だと思わない方がおかしい。
「……もしも相手がこちらに向かってくるなら、荷車を盾にするんだ。
そしてすぐに馬に乗って、韓浩殿の所へ、一目散に逃げる。
相手が、我々を無視して韓浩殿の所へ行くなら、追って敵の背後を取ろう」
きっとこれが、最後の行動の確認になるだろう、そう思いながら指揮官の青年は皆に伝える。
「は、はいっ」
すでに輜重の後ろに隠れた副官が、隙間から片目だけのぞかせてうなずいた。
その時だった。数頭の馬が駆ける低い音が聞こえた。
まさかこんなに早く審議が終わると思っておらず皆ギョッとして顔を上げると、相手はすでにを弓矢を構えている。
「うそでしょ!」
夏侯将軍も慌てて輜重の後ろに駆け込むと同時に、矢が荷物に突き刺さる鋭い音が連続で響いた。
夏侯将軍は急いで荷を括る荒縄を小刀で切断すると、荷車の底を掴んでひっくり返そうとした。だがビクともしない。
「ひえっ!なんでぇ?」と混乱しかけたが、ハッと気付き、一部の荷物を力いっぱいに押した。とたん荷崩れして、数個の木箱が地面に転がり落ちる。
そして幾分軽くなった荷台の底をふたたび掴むとありったけの力を込めて、放り投げるようにひっくり返した。
勢いよく木箱や袋が落下して、衝撃で壊れると中身が散らばった。
上手い者は、敵の騎馬兵を荷物に巻き込み、倒している。
地面には、穀物、干物、木の実など、食の財宝が小山となって並んだ。
とたん、目の前の騎馬隊はもちろん遠くに残っている部隊まで、つまり呂布軍全体から驚きというよりも、歓声がわき上がった。
殺気立っていた騎馬隊も、今は敵より食料らしい。下馬してそれをかき集め始めた。
「やったっ!大成功ですっ!みんな食べ物に夢中ですっ!」
副官は大感激し、飛びつかんばかりに夏侯将軍に叫んだ。
「あはは!さ、今のうちだっ。韓浩軍と合流して、
馬上の人となった夏侯将軍は駆け出そうと、馬首をひるがえした。
だが、振り返ったその目の前に、見知らぬ男が一人、佇んでいるのを見てギョッとした。
その男は、磨き上げた黒光りの甲冑を纏い、燃えるような赤毛の大馬に跨っている。
兜は独特で、羽を繋げた長い飾りを付けており、それがゆらゆらと風に揺れていた。
均整の取れた体は雄々しくも優雅で、小さな顔に大きな瞳、くっきりとした鼻筋は見たことがないほど高い。
まるで異国に住人のような、美丈夫だった。
伝説や神話に出てくるような、理想的な将軍の姿である。
……こいつが、
直感した夏侯将軍は、戦慄した。
天下無双と誉れ高い呂布は、義父とはいえ、二人の父親を裏切り、殺害した男でもある。
一人目は自分を軍人として育ててくれた人物、そして二人目の義父が、
天子と朝廷を、董卓の暴虐から解放してくれた彼は英雄であり救世主でもある。
しかし時間が経つにつれ、その評価は変わっていく。
この世で最も敬うべき存在は父親である、と云う儒学が常識とされるこの社会では、父親殺しは最上の禁忌であった。
それを二回も犯した上、噂ではあるが、彼の犯行動機は董卓の女官との関係が露呈する事を恐れて、と広まると、いつしか英雄譚の輝きよりも、下世話な陰りの方が大きくなってしまったのである。
実際、彼は様々な人物から追い出され続け、あるいは拒否され彷徨い続けていたのだ。
……そんな男が、今ここに、なぜか流れ着いてきた……。
戦慄に浸っていた夏侯惇だったが、ふと、現実に戻った。
……ん?というか、この人、どっから私の後ろにきたんだろう?
と、今さら、考えても仕方ない事を考え始める。
……この物資と荷車の、この狭い隙間から侵入してきたのだろうか?
それとも、私を飛び越えて、入ってきた?
あるいは音もなく、遠回りして忍び込んで、ここへ来たのかな?
どっちにしろ、気配さえ、感じなかった……。
しばし無言で、相手と対峙し続ける。
相変わらず、相手の兜の羽飾りだけが、動いている。
それがまるで主人の敵を探す別生物のように見えて……なんだか気味悪いな……。
突如、黒光りの将軍はまるで宙を飛んだか、あるいは瞬間移動の如く迫ってきた。
「ほっ?!ほああっ!!」
あまりに唐突で、そして異常な早さに、夏侯将軍は腹の底から絶叫した。
そして大混乱のまま、ただ一人逃げ惑う。
見苦しく右往左往して馬を振り回す夏侯将軍とそれを追う呂布を、しばし呆然と見ていた副官だったが正気に戻ると皆に呼びかけた。
「おおっ!夏侯将軍がおとりになってくださっている。いまうちに、我らは早く韓浩軍へ逃げるのだっ!」
その声に兵士たちも我に返ると「夏侯将軍!ありがとうございますっ」「がんばって!」と口々に声援を送りながら馬を走らせ、死地から無事に脱出していった。
つづく
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