第126話 兗州・夏侯惇将軍の憂鬱
しかし、すぐに我に返ると「今すぐ軍勢を連れて鄄城へ向かいます」と使者に伝えて、自身も部屋を出た。
城に待機していた少数部隊をまとめると、夏侯惇はすぐに先発した。
その後、緊急招集によって集まる兵士たちは、副将の
「軽装備でいいのだ。とにかく早く準備を完了するように。出発が優先だ」
軍馬や兵士たちが慌ただしく行き交う中、輜重隊長が駆け寄ってきた。
「韓浩殿、輜重をすべて持って行くなら、あと半刻は待っていただけませんか?」
「いや、そんなには待てない。ただ、できるだけ頑張って積んでほしい。
駐屯地が鄄城に変わるかもしれないのだ。鄄城も、いや、どこもかしこも、食料の余裕はないだろうからね。あまりに少ないと、大きな問題になりかねない」
その言葉に、隊長は目を丸くした。
「えっ。どういう事ですか?まさか、この濮陽を、捨てるのですか?
そんな、突然、一体なにが起こっているのですっ?」
部下に迫られて、韓浩は困った顏を返した。
「すまない。実は、私も事情はよく知らないんだ。ただ目的だけ教えられたのだ。
でも、それが緊急事態というものだ、たぶん。
ま、夏侯将軍が言っている事だから、信じて従って、大丈夫さ」
「は、はあ……わかりましたよ」
相手は戸惑いながらもうなずき、再び自分の持ち場へ駆け戻った。
軽装だが用意を整えた兵士たちは、訓練通りに素早く隊列を組んでいく。
それを見ながら、韓浩は大雑把に目的地到着時刻を予想した。
……ふむ、鄄城まで行軍だと、早くて二刻から二刻半かな。
輜重は重くて遅くなるから、もっと遅れるだろう。下手をすると夕方になるかもしれない。
万が一、もっと速度が必要なら、輜重を捨てるしかない……。
そして先発の夏侯軍より半刻ほど遅れて、韓浩軍の行軍が始まった。
「夏侯将軍、報告いたします。
濮陽方面に向かって、正体不明の軍隊が進んでいるのを発見しました。
騎馬隊が数百、歩兵はほとんどおりません。
旗には「呂」という文字が記されております」
斥候が大変恐ろしい事実を淡々と伝えてきたので、夏侯将軍と副官は馬上で蒼ざめた顔を見合わせた。
「このまま進みますと見つかる可能性が非常に高いと思われます。ご注意下さい」
……注意しろ、と言われても……と、青年は周囲を見渡した。
四方は、地平線の限りになにもない、若草の平原なのである。
蛇にでもなって草むらの中を這わないかぎり、どこからでも発見されるだろう。
とはいえ、ここを避ける別経路では大幅な遠回りとなり、時間がかかり過ぎる。
「……困ったな」
夏侯惇は、眉をひそめた。
「とりあえず、後発の韓浩軍にも知らせてくれ。
そして、できるだけ早く合流できるようにと、伝えてほしい」
「わかりました」
斥候は馬首をひるがえすと、後方へ向かって走り去った。
青年はしばし、何も聞かなかったように行軍を続けていたが、ふと、口を開いた。
「いや、ちょっとやはり一旦、止まろう……」
突如の休憩命令で、約五百人の先発隊は、急ぎ足をやめた。
休めるにもかかわらず、急いで鄄城へ向かうと聞いてたので、逆に不満気な様子さえ漂っている。
「な、な、なんです?どうしたのです?こんな所で止まるだなんてっ。
まさか?!戦うつもりじゃないでしょうねっ?」
副官が、興奮しつつもできるだけ小声に抑え、指揮官である夏侯惇に詰め寄った。
「この少人数で、しかも皆、移動に特化するために鎧もない軽装なのですよっ?」
「戦うつもりは、もちろんないよ。というか、できないし。
だけど、こんな隠れる場所がない場所では、確かにいつ見つかっても不思議じゃない。もう駆け足はやめて、万が一に備えて、体力を温存しておこうと思ったのさ」
その言葉に、副官は固唾をのんだ。
夏侯惇将軍はわずかに視線を上げる。
「しかし相手の軍隊は、私たちを見つけたからといって、こちらに来るかな?
だって、進路から予想して、彼らは濮陽に向かっているのだろう。
きっと、第一目標の曹操殿の家族がいる
城を奪取するのは、拠点を作る為にも最優先のはずだ。
その重要な目的があるのに、わざわざ、少人数の私たちの所へ寄り道するかな?
明らかに時間と労力の無駄使いになるんだけどな。
さて、呂軍は、どちらを選ぶんだろうね。
本来の目的を見失わず遂行するのか、それとも、寄り道して私たちの所へ来るのか。
後者なら、あまり我慢が上手くない性格の軍隊なのかもね」
「は、はぁ……」
副官は苦虫を咀嚼しているような渋い顏で返事をしたので、夏侯惇は苦笑いをした。
「つい長話をして悪かったよ。
それに、不安はわかるけど、状況は何も変わらないんだ。
こうなったら、何が起きても臨機応変に動けるように覚悟する事が大切さ」
そのうち、さらに困った報告が入ってきた。
「正体不明の軍が方向を変え、こちらに向かってきております。
現在、敵は約二十里先。ここからでも見えてくると思います」
周囲はうめき声のような、落胆の声をあげた。
そんな中、指揮官である青年だけは普段と変わらず優雅に斥候に礼を伝えている。
「か、夏侯将軍っ、のんびりしている場合じゃないですっ。
我々は鎧も盾も弓も持っていません。この無防備で、どうやって敵と戦うつもりなのですっ?」
副官は焦燥と不安だけでなく緊張も高まったのか、すでに荒い息をしている。
苦悶に満ちた彼の表情を見て、青年は思う。
……わかるよ、キミのその気持ち。私だって本当は誰かにそうやって聞きたいよ。
それにしても、アタフタしている人がそばにいると、逆に落ち着いてくるから不思議なもんだな。
そして彼は、とても基本的な事を言った。
「ないなら、作れるしかない」
「はあ?」
副官はあからさまに眉をひそめて、青年を見返した。
「弓や鎧は無理だけど、盾ならできるよ。
輜重を崩して、荷台だけを起こせばそれらしくなる。
ふむ、罠としても使えそうじゃないか。
今や食物は、敵も味方も、喉から手が出るほど、欲しがっている貴重品だからね。
崩した輜重を、敵は勝手に奪い合ってくれるかもしれない。
その混乱のうちに、私たちは後方の韓浩殿の軍と合流すべく逃げるんだ。
ま、古典的な方法だから、敵が引っかかるか心配だけど」
「な、なるほどっ!それでいきましょうっ」
副官は明るく素直に感心してくれたので、指揮官の青年も素直に照れた。
そんな話をしているうちに、地平の先に小さな土煙が上がった。
敵という、死の先触れを見て、全員が恐怖で身を強ばらせる。
自軍を振り返ると、青年は速やかに指示を出した。
輜重と自分を含めた騎馬隊数名以外は残り、他は韓浩の軍に合流するために後退せよ、という簡潔な内容であった。
……先ほどの思い付きを実行するしかないのは心許無いが、しかし、やるしかない。
副官の青年は明るい顏のまま、自分も歩兵たちと逃げようと騎乗しかけた。
だがそこで、自分も騎馬隊だったわ……とハッとすると、また苦悶に満ちた表情に戻り、観念したように指揮官の青年と共に残された輜重へと急いだ。
つづく
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