第117話 兗州・後方支援と第一回徐州侵攻戦~兵士虐殺説~
いわゆる、後方支援である。
今まで
彼の働きは見事なもので、たとえば以前の
陳宮の説得がなければ、地方豪族たちは地元で長引く戦いと続く増税に不満を爆発させ、支援は潰え、下手をしたら謀反も起こされていたかもしれないのだ。
問題なく戦えたのは、彼のおかげといってよい。
その手練れの陳宮に教わりながら、荀彧はここで働く。
目まぐるしい計算の日々が始まった。
四則演算はもちろん、現在で言う連立方程式の解を求める事もできる。
巨額が次々と弾き出され、それが消費されると思うと寒気がした。
昔から戦争が長引けば国が傾くと言うが、それを実感する。
だからといって軍隊を半端に切り上げさせれば、それも破滅のきっかけとなるかもしれない。
……ここも戦場の一部だ。私たちが計算、配分、予想を間違えば、それが敗退の原因にもなりえるのだから……。
墨が減るのと並行し、神経も磨り減っていく気がした。
集中が途切れ、筆を止めると、陳宮は淡々と作業をこなしている姿が見えた。
職人のように手早く計算し、書類に記し、提出された竹簡を確認している。場合によっては馬を駆って豪族と話し合いにも行くのだ。
荀彧はすっかり彼に感服していた。
……この人もまた、大きな才能の持ち主だ。私も頑張らないと……。
文官らしい細い背中から目を離すと、また、算木に向き合った。
数日が経ち、陳宮は支援担当の皆を集め、話を始めた。
「
すでに役人を送り、町や村の修繕費、略奪された食料の量を調べています。
こちらでも、泰山担当の計算組を作ろうと思います。
曹仁殿ですが、彼はこのまま、攻城戦武器を所有したあとで徐州へ入るとの事。
曹操殿の本隊とは合流せず、それぞれ違う二方向から侵入するようです。
ですから、こちらも曹仁軍担当と本隊担当、二つの組み分けをしましょう。
両軍の現地での略奪、いや、現地調達が始まるのは時間がかかると考えます。
両将軍は初めて、侵攻と攻城戦をするのです。
とくに攻城戦は、戦いの中で最も困難とされています。
焦る事なく、状況を見るようにしましょう。
私たちもこれからが本番ですよ。
送る補給が滞ったり無くなった時、この戦いは終わります。
知恵と工夫を凝らして、遠く離れた最前線を助けねばなりません」
その言葉に、荀彧は皆と共に拱手で応えた。
それから日を経たずして、思い掛けない報せが入ってきた。
城を一つ落とした、という。良い報せだった。
「初めての攻城戦で、こんなに早く陥落させるとはっ」
荀彧が驚いていると、陳宮もやや興奮気味で口を開いた。
「ええ、素晴らしい成果ですよっ。この城を、敵地での前線基地にしなければ。
城の備蓄を強奪、いや、上手く使えば、我々の補給も数日は楽になります。
さっそく奪った城に兵士と役人を送り込んで、奪い返されないようにせねばなりません」
「ええ。急ぎましょう」
荀彧は逸る気持ちのままに、さっそく手配を始めた。
それから、異様な事態が起き始めた。
数日おきに続々と「城を落とした」という報告が入ってくるのである。
この効率の良さは、本隊と曹仁軍と二方向から侵攻しているからかもしれない。
だがそれでも、捗りすぎている。すでに陥落させた城は、十に届く勢いだった。
「なんだ、これは。現地で、いったい何をしているんだ……?」
荀彧は思わず呻いた。
喜びよりも、味方ながら、その凄まじい進撃ぶりに戸惑いと恐怖を感じたのだ。
「ふふっ。まるで、敵方のような感想を言うではありませんか」
陳宮は笑顔で言ったが、その目はなぜか、真剣だった。
「味方のあなたでも、大きな衝撃を受けているのなら、陶謙たちは一体どんな気分なのでしょうね」
そして思いを巡らすように、視線をわずかに上向ける。
「曹操殿の戦いは、この部屋のなかで結果だけを聞いていると、まるで魔術でも使っているのかと思う時があります。
荀彧はなぜか思わず、ぞくりとした。
「ですがあの人は魔術師でも、天の使いでもないのです。
私たちと同じ、人間ですよ。
ただ、その指揮には、我々も含め、皆が全力で応えようと思わされる、なにか力があるのは確かですね。
その結果、この信じ難い快進撃の現実を作っているのでしょう。
そういう意味では、曹操殿は間違いなく、希代の天才です。
ま、あの人が徐州から帰還されたら、一体どうやってこれほど多くの城を落としたのか、尋ねてみたらよいのです。
その答えは魔法などではなく、意外と単純な答えかもしれませんよ」
荀彧は素直に頷いた。
「ええ。ぜひ聞いてみますよ。
今はただ、あの人が敵ではなく味方で本当に良かったと、思ったのです」
その言葉に、陳宮はめずらしく白い歯を見せ、破顔した。
短い秋が終わり、初冬の頃、
そこで曹操本隊に曹仁軍も合流し、ついに決戦が始まったのだ。
戦いは激しく、そばを流れる
……彭城はかつて、覇王とも呼ばれた
その時は、劉封軍五十六万人に対して、三万の項羽軍が圧勝した。
劉封の兵士、二十万人が殺戮されたというが、彭城はふたたび、熾烈の地になってしまったらしい……。
やがて、追い詰められた陶謙は、彭城を捨てた。
徐州のほぼ中心地、
対して、最後の戦いだと信じて激戦した曹操軍は、兵糧を使いきっていた。
……もう、あと一歩なのだが……?
徐州の現場も兗州の留守組も、誰もが強烈にそう感じた。
同時に、ここからさらに敵地び奥へ侵入し、もう一度決戦をする事ができるのか?とも思う。
……退くのか、進むのか……?
「撤退する」
皆の意見が二つに割れて揉める前に、総指揮官は決断を下した。
こうして陶謙討伐は未完了のまま、引き返す事が決定したのであった。
「ふたたび、徐州へ征くでしょうね」
陳宮が、ぽつりとつぶやいた。
「討伐戦として、不完全な結果ですからね。
陶謙が生きているかぎり、終わらないのかもしれません。
しかし今年も、農作物は不作でした。備蓄の余裕はありません。
この状況で、また近々戦争をするならば……きっと、兗州の民の反感を買うでしょうね……」
荀彧の声は低く、陳宮は重々しく頷いた。
つづく
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