第116話 兗州・失われた  ・留守人の選択

早足で進む廊下には、眩しいほどの西日が射しこんでいる。

……異国では、この陽が沈む先に死者の国があるという。

その一方で私たちの魂魄こんぱくは、泰山たいざんへ戻るという。

魂となっても人の魂は一つの場所に還るわけではなく、またそこでも国や何かで別れ、争ったりするのだろうか……?


簡素な執務室に到着すると荀彧じゅんいくは厳かに弔意を述べて一礼した。

相手は丁寧に返礼したが、その落ち着きぶりに却って戸惑う。

とはいえ、まるで仄暗い湖に沈んだ睡蓮を見ているような、整然の中の異様な息苦しさを青年は感じた。


……それで、当然だ。この人は平静を装って、計り知れない大きな哀しみを隠しているだけなのだから、ちぐはぐとした気配で当たり前なのだ。

それにしても、父と弟を急に亡くされたのだ。喪に長く服されるかもしれない。

その間、この兗州えんしゅうの管理は……。


青年は、ふと、考えを止めた。

相手を慮ったあと、すぐに仕事を案じている。

自分が冷たい人間に思えて、わずかに目を伏せた。


徐州じょしゅうへ、陶謙とうけんの討伐へ征こうと思う。今すぐに」


唐突な呟きに、青年は顔を上げた。

なぜか沈黙が続き、幻聴か?と思い始めた時、相手が口を開いた。


「喪にも服さず、冷たい人間だなと思い、言葉を無くしていたのかい?」

軽く動揺しつつ「いいえ」と答える。

……冷たいかどうかはさておき、偶然に似たような考えで驚いている青年には、相手の表情がわずかにゆるんだように見えた。


「本来なら、喪に服すべき時なのだろう。敵も味方も含めて、そう思っている。

だからこそ、不意打ちになると思ったのだが。

しかしこんな時に動くのは、非常識だと、自分でも思う。

父を敬え、という儒教に対して反逆的だと、世間からも思われるだろうか……」


「敬意の表現は様々です。喪に長く服する事、仇を討つ事、皆それぞれ自分にできる弔いをするのでしょう。


そしてありふれた話をしますが、世間の常識や、儒教の習わしは、時や場合によって変化するものです。

だからといって蔑ろにしてもいいと言いたいわけではありませんよ。

ただ、それらは意外と脆いものだと、私は思っている。それだけです」


「わかった」と相手は小さく頷いた。

「侵攻戦は……いつかは必ず、やらなければいけない事だった。

以前から、陶謙の討伐のために徐州へ征くようにと、以前から袁紹にも言われていた。


その瞬間が、父が殺されたせいで、前触れなく、訪れたというだけだ。

そしてやるなら、好機と思える時に動いた方がいい、それだけだ」


今ここで、大きな決断が下された、はずである。

だがそれに伴う覇気などなく、決めた本人の心も晴れた様子もない。

……依然としてこの靄がかかったような気配、違和感は、なんなのだろうか……。


そして青年はふと、ぎくりとした。

……もしや、この人が秘めているのは。

拱手すると、踏み込むような気持ちで口を開く。


「恐れながら、申し上げます。

出撃されるとして、まずはどこへ向かわれるのでしょうか。

ご存じでしょうが、事件の発端である泰山郡たいざんぐんには、すでに曹仁そうじん殿が奪還戦へ出張っておりますが……」


事件の発端などと、無神経な事を言っている。

いろんな意味で緊張し、答えを待った。


……もしもこの人の本心が、父への復讐心だけならば、当然、父親が殺された泰山へ向かい、敵を討伐すると答えるだろう。

気持ちはわかるし、それが当たり前の反応にも思う。

だが今はもう、不要な動きだ。

あえてその無駄をするというのなら、この侵攻戦は負けるかもしれない。

戦いは冷静な判断ができなくなった者が、敗北するからだ。

……はたして、なんと答えるのだろう。


少女は小さく、呟いた。

「曹仁か。ならば泰山には、私は征かなくてもいいかな。

だがそれは……知らなかった」


青年は安堵しつつも、また新たな疑問に眉をひそめた。

……知らなかった?まさか。軍事行動の報告がされていないなど、あり得ないが。


その反応を敏感に察した相手は、自信無げに視線を下げた。


「曹仁の件は私も聞いているはずだ。私も、そう思う」

意味がよくわからなかった。青年はただ黙って、相手の話を聞いている。


「しかし私には、その覚えが無いんだ。

思うにこの数刻の間、所々の記憶が空白になっているようなのだ。


酷い時は報告を聞いている時から、中身が抜け落ちていくような感覚も、あったような気がする……。今思うと、ひどく職務怠慢な責任者だった」


まるで昔を思い出すように、今日の薄れた記憶を、無理に思い出している。


「今は、徐々に、回復しているように思う。治るまでは覚え書きをしようと思う。


……人の心や記憶は、器のように受け入れられる量が決まっているのだと、私は初めて実感したよ。

こんな不安定な状態ですまないが、今は、そのような症状があると思いながら話をしてくれるとありがたい」


「なんと痛ましい。やはりしばらく休養するか、喪に服されては?

あまり身体を酷使しますと、持病の頭痛も、ひどくなるかもしれませんよ」

「いや。今は、君たちと一緒に居させてほしい」


その即答に、青年は自分でもなぜかわからず、慌てて答えた。

「わかりました。あなたがそれでよいのなら」

言いながら、相手が漂わせていた朧の正体がようやくわかった気がして、一人、ひそかに納得していた。


「すまないね、ありがとう。では、話を続けたい。


徐州の陶謙だが、私は、彼は手ごわい相手だと思っているんだ。

地の利を生かした防衛戦に徹せられたら、私は生きて還れない気がする。

だから袁紹の侵攻の話を断っていたのだが。


だが父と弟を殺害されては征くしかない。まあよくも、やってくれたものだ……。


この憂鬱は、父たちの事も当然だが、徐州攻略に自信がないのも原因の一つかもしれないな。

余裕がないのに戦わなければいけない。

だが後に回して、陶謙の警戒心や守備を万全にさせれば、もっと不利になるだろう。

とにかく今は、私が持てる力の全てを持って、やるしかない」


最後の言葉に、荀彧は目を細めた。

……持てる力の全てとは、青洲兵せいしゅうへいの事だ。

精鋭でさえ制御に苦労しているのに、全てとは……。

だがここで鬼札を使わねば、生存率はますます低くなるだろう。

危険だから連れて行くなとは、とても言えない。


「自信がないと思うのは、客観的にご自分を見ている証拠です。

だからこそ兵の使い方、進め方を慎重に考え、きっと上手く戦えるはずです」

なんとも歯切れの悪い励ましと忠告だと、自分でも思う。


「君の心配はよくわかった。私も兵士も、気を付けよう」


「ご武運を祈ります。必ず生きてお帰りください。

生きていれば何度でも挑めるのです。それをお忘れなく」


「わかった。危ないと思ったら、すぐに撤退しよう。覚え書きに書いておくよ」


「ええ、大きく書いておいてください。

ところで、あなたは必ず出撃するとして、兗州には誰を残しますか?

あまりガラ空きにされますと、その、空き巣に狙われるかもしれません」


含みある言葉に、相手は視線を上げた。

……張邈ちょうばくに懐いている、呂布りょふの事か?


夏侯惇元譲かこうとんげんじょうを、置いていこう」

「はい」

荀彧は、恭しく拱手した。

……留守の間、彼が兗州内で最も強い軍事力を持つ事になる。


「あと、君も残そう。留守の間、万が一があれば、君にすべてを一任する。

いざという時には、夏侯惇に命令して、好きに使うがいい。

その時以外は、後方支援を担当してほしい」


「御意」と、突然の重責にあわてて深々と一礼した。


「あとは、程昱ていいく陳宮ちんきゅう……張邈ちょうばくも残す」

「……。は」

意味ありげな沈黙を補足するように、相手が再び口を開いた。


「皆には留守を頼む書簡を、私から送るよ。

とくに張邈には、もしもの時は家族を任せると、書いておく」


荀彧は驚き、反射的に何か言おうとしたが、すぐに口を閉じた。


……いや、深く信頼している、と伝える方が、牽制になるか。

万が一、呂布の悪だくみに誘われても、きっと良心が咎めるはずだ。

まあ本当に、張邈の事を信じているのかもしれないが、なんにせよ、上手いクギの刺し方だ。


「わかりました。きっとその信頼と友情を裏切る事はしないでしょう」

相手は頷いた。


その日は夜中まで、さまざまな段取りが話し合われた。

次の日の夕刻には、総指揮官がいるとは思えぬ少人数で、ひっそり出撃した。


順次、地方の隊が合流していく。

今まで扱いに慎重だった青洲兵せいしゅうへいもほとんどを招集する。

徐州に侵入する頃には、兗州の持つ全ての力、ほぼ全兵力という大軍となった。


つづく

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