第115話 兗州・死別

墨を散らして筆が竹簡の上に転がった。

唖然とした少女は、消え入るような声で問い返す。

報告者は今一度、慎重に事実を伝えた。


曹操そうそうの父、曹嵩そうすうと弟たちが、陶謙とうけんの将兵に襲われて、全員死亡した。

それも兗州泰山郡えんしゅうたいざんぐんで。


「私の兗州内で、なぜだ……?父と弟は非戦闘員なのに、どうして……?」

動揺している主を見るのは初めてだった。

本来ならその心痛に対して落ち着く時間を置くべきだ。

だが事は急を要するので、報告者は相手の質問に答えるように話を続けた。


「敵は、曹嵩殿の財産を、略奪したのです……。

今も泰山郡で村を襲い、強奪を続けているとの事です。

この対処のご指示をどうか……」


「私の家族を人質にせず、その場の金銭を優先させたというのか。

そんなに、父と弟たちの命は、軽いものというのか……?」


そして、黙り込んだ。

再度、指示を仰ごうと口を開きかけたと同時に、少女は唐突に立ち上がった。

そのやけに鋭く、しかし意味のない行動に、報告者は思わず身を強ばらせた。

しかも、相手の目の焦点は、どこかずれている。

殺気はないが、しかし、なぜか身の危険を感じる緊張感が漂っていた。


もう、指示を催促する勇気などない。

恐る恐る机に一巻の竹簡を置くと、静かに伝えた。


「こちらの竹簡に、すべての状況はくわしく記されております。

また、続報が入りましたら……」

その声は途中から、少女の頭には入ってこなかった。


相手が部屋から出て一人になると、目を背けるように後ろを振り向いた。

……いや、何をしてるんだ私は。早く、詳細を確認しないといけない……。


だが目には、窓の格子に切り取られた役所の中庭が映り続けていた。

鮮やかな緑が眩しい。

しかし気の早い葉はすでに黄色に染まり、地面に落ちている。

夏が極端に短いのだ。夜は肌寒い日まである。

季節は今も狂い続けているのだ。

またすぐに凍える冬がやってくるだろう。そして多くの人々が……。


……いや、そんな事、今は考える事じゃない。

少女は数度、目を覚ますようにまばたきをして、後ろを振り返ろうとした。

……今は、私の兗州に他州の軍隊が侵入して、罪のない住人が苦しんでいる。

早く……報告の竹簡を見ないと……早く……。


……そうだ、なぜもっと早く、父上たちを呼び戻さなかったんだよ?

突然、少年の声が頭の中に響いて、身震いした。


……お前だってひそかに、その日を待っていたはずだろう。

なのにその日は、永遠になくなったんだ。

僕はずっと欠け続け、もう二度と、足る事はないだろう。


そして少年の自分は顔を伏せ、瞳を固く閉じた。

その苦痛に耐えるような仕草は、覚えがある。


……すこし、違うね。

姿が少年であろうとこれは自問自答、あるいは自己嫌悪の現れだとわかっている。

だが心の中の少年に対して、真摯に答える。


……君だけじゃない。私たち、だ。私たちは、一緒だからね。

私も、足りる事はなくなってしまったんだ。

だから私たちは欠けたまま、これからも共に生きていくしかない。


そして少女は瞳を大きく開くと、爪が食い込むほど強く拳を握った。


つづく

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