第114話 冀州・静かな晩餐、徐州侵攻への誘い

飛ぶ鳥が欄干の真横を過ぎ去った。

真下に見える城の屋根も遠く、奥に広がる街の果ては夏の黄昏に霞んでいる。


この高楼では普段、文武百官が集まり宴を開くのだが、今は二人しかいない。

袁冀州牧えんきしゅうぼく曹兗州牧そうえんしゅうぼくは適切な距離を保ち、食事をしていた。


男は手酌で酒を口に運び、その正面で、少女は並んだ皿に箸を運ぶ。

二人の話題は料理と違い、味気のないものばかりだった。


袁術えんじゅつの話から始まった。

彼との戦いからすでに数か月が経っているが、動きがないのが不気味だった。

少なくとも彼は以前、本拠地にしていた荊州南陽けいしゅうなんようには戻る事はできない。


なぜならば「うちの田豊でんほう荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうに、袁術が出撃したのち兵糧を送るの止めるように助言したからだ。

この作戦により、劉表は袁術追い出しに成功したというわけだ」と、部下自慢を交えつつ、袁紹は旨そうに酒を飲み干した。


……へえ、程昱ていいく殿と同じ作戦を田豊殿も思いついていたのか。

驚いた勢いで「奇遇ですね。私の程昱もその策を…」と話す事はなかった。

ただ、田豊という人物はとくに警戒するべきだ、と気に留めただけだった。


そのうち酔いが回ってきたのか、袁紹は愚痴りだした。

張邈ちょうばく呂布りょふが懇意にしているのが、気に食わないという。

呂布は董卓とうたくを殺害して長安を追い出され、今もまだ彷徨い続けているのだ。

……董卓。今では昔話に感じるな……。


「皆が呂布を毛嫌いするのは、当たり前さ」

袁紹は不快な思い出を吐き出し、入れ替わりに酒を流し込む。


「袁術に邪険にされたあいつを、私は気の毒に思い、受け入れてやったのだ。

しかし呂布は自分の強さを鼻にかけ、どんどん図々しくなっていった。


それに父親を義理ではあるが二人も殺している。それも恐ろしいじゃないか。

親を最も敬うべきという、儒教に真っ向から反して、平気な顔をしている。


私なんて、何かあればすぐに殺されるのではと、不安になって仕方がなかった。

だから結局、追い出してしまったのだ。


この世界は強い力を持つ者は、確かに有利だ。

だがそれだけではだめなのだと、彼は私に教えてくれた気がするね」


「なるほど」

素っ気ない返事に袁紹は口を閉じ、そしてややムッとしたように片眉を上げた。


「張邈は、そんな男と親しくするなんて、見る目が無いと私は思うね。

このまま付き合いを続けるなら、きっと、痛い目を見るだろう。


それに、張邈はお前の兗州の太守の一人なんだぞ。

それが勝手に、流浪の軍勢と親しくしているのだ。少しはお前も警戒した方がいい」


矛先が突如自分に向いて、わずかに困惑しつつ答える。


「張邈殿は、優しい人ですからね。

宿が無くて困っている呂布殿を、見逃せなかったのでしょう」


そして、ふと真顔になると相手を見つめた。


「私だって、董卓に追われて身一つで逃げていた時、張邈殿の配下である衛茲えいじ殿に助けてもらったのです。


張邈殿がいなければ、私は今、ここにいなかったでしょう。

今は亡き、衛茲殿や鮑信ほうしん殿と同じく、誰よりも信用できる恩人です。


彼に対して、私がなにか警戒する事など、ありませんよ」


袁紹は呆れたように目玉をぐるりと回した。


「まあいい。お前の管轄地の事だ。勝手にするがいい」


「ふふ、ご忠告は、ありがたく受け取っておきますよ」

少女は微笑むと、また食事を進めた。男もしばし無言で箸を動かした。


初夏の黄昏は儚く、空にはもう薄い月が漂っている。

燭台の灯りが置かれ、淡い星の光と合わさりお互いの姿を照らし出した。

現と魔が溶けあうような薄闇の中で、再び袁紹は静かに口を開いた。 


徐州じょしゅうで、闕宣けっせんという不遜な人物が、天子を自称したのを知っているかね?」


少女は一口、白湯で薄めた酒を飲んでから、小さく頷いた。


「その闕宣けっせん陶謙とうけんが、同盟を組んだそうですね。

陶謙は徐州牧じょしゅうぼくという立場にも関わらず、彼と一緒になって民衆から略奪を行っているのだとか。


賊を討伐するべき牧が賊となったのですから、徐州の治安は急激に悪くなったそうです」

そして憂鬱そうに眉をひそめ、低い声で続けた。


「徐州は平和な地だと聞き、洛陽らくようから多くの人が避難しました。

私の父と兄弟たちも避難して、暮らしていたのです。

なのに唐突に危険な地域になってしまい戸惑っています。


父にはうちの兗州へ、私のもとへ来るようにと、急いで使いを出しました。

私の……いや多くの人々に、災いがなければいいのですが……」


「ねえお前、徐州へ征って、闕宣と陶謙を討伐する気はないかね?」


憂い顔だった少女は、ハッとして、顔を上げた。


「まさかっ。

今の私は、自分の管轄地を守るだけでやっとです。

地の利がわかっているから、勝てる程度の戦力です。


他州へ征くには、まだまだ戦場の経験も足りないし、兵力や物資もありません。


それに陶謙は前回対峙して思いましたが、あの人は戦いの勘が良いと思いました。

そのような指揮官の支配地に入って戦うなんて、自ら敵の罠に入るものではありませんか」


戸惑い、反射的に断る言葉に、袁紹は一度も頷く事はなく、ただ冷めた目で聞き流した。


「闕宣は、天子を自称し、漢王室を否定した。

陶謙は、その闕宣と結び共に民から略奪を行い、罪は同じく重い。

死罪となるべき男たちだ。


この二人は逆賊であり、漢王室を真っ向から否定する者だ。

いつかは討伐するべき、我々の敵でもある」


もはや完全に将軍の顔つきで、鋭く言い切った。


……そして陶謙は、袁術とも組んでもいる、と。

少女は、袁紹の本音を苦々しく察する。


……前回、陶謙を見逃した私が、その後始末をするべきだ、という事か。

醒めた気がした。そしてわずかに視線を上げる。


……徐州侵攻。


ゆっくりと静かに、その言葉の意味を飲み込み始める。

前向きな気持ちは沸かない。

だが、今のまま、敵が多い状態で守備に徹していれば、いずれ行き詰まるのはわかっている。結託されて同時多発に攻撃されれば、簡単に潰されてしまうだろう。

……私たちは戦争をしているんだ。だから通らねばならない道だとわかっている。


「わかりました。いつか、条件が整えばやりましょう。

そして、もしもの時は、あなたにも助けていただきたいのです」


その素直な言葉に、壮年の男は杯を傾け、どこか嬉しそうに問う。

「ほう、私に助けてほしいのかね?遠慮せず、言ってみたまえ」


「侵攻は初めてですので、私の軍隊だけでは経験不足です。

援軍をお借りしたいのです」


伺うのではなくはっきりと要求したのが、なぜか気に入った。


「ふむ、わかった。無理をさせて、お前にあったら私も困る。

承諾した。お前に、私の軍を貸してやろう。

これで、徐州を攻める条件は整ったかな?」


「いえ、私の父と兄弟の無事が確認できてからです。私のもとへ保護してからです」


「ああ、忘れていたよ。それは最重要事項だ。一刻も早く脱出させたまえ。


そして待っている間に、お前は自分が持てる最大限の破壊力を出せるように、武器をよく研いでおくことだな」


少女は一瞬、相手の言っている意味がよくわからず目を細めた。

が、すぐに思い当たり、顔を上げた。


青洲兵せいしゅうへいは、精鋭しか連れて行きせんよ。

袁術の時は、その精鋭でさえ、よく操作しきったものだと安堵したものです。

それ以外はまだ、野生の黄巾賊こうきんぞくのようなものなのですから……」


「へえ」

袁紹は興味深げに、眉を上げ、無言で相手を見つめ続けた。

なにやら相手の興味を引く話をしてしまったと、少女は口をつぐむと視線を反らした。


「まあいい。

要は、私の軍を、あまり損傷させないでほしい、という事だ。

その前にまずは、お前のポンコツ青洲兵を使ってほしいものだね。

私のこの考えは、間違っているかね、図々しいかね?」


そう言われると反論の余地がない。


「間違っていませんし、図々しくもありません。正論ですよ。

私にだってお借りた軍勢をボロボロにして還すつもりはありません。


ただ、青洲兵は、あなたが思う以上に危ないのです。

彼らが敵だけを相手に暴走するのなら結構な事です。

味方である私たちに対しても、攻撃したり、略奪してくるから厄介なのですよ。

下手すると、あなたの軍勢ごとマルッと一飲みしてくるかもしれません」


袁紹は、大きな声で笑った。


「あははっ、さすがはお前の特別な兵士たちだよっ。

想像よりメチャクチャじゃないか。ますます興味がわいたね。

ぜひ、青洲兵と一緒にうちの軍勢を連れて行ってほしい。

命懸けで観察してくるようにと、命令しておこう。あははっ」


少女はムッとして、男を見つめた。


「いずれ、全員、完璧に手懐けますよ。今はまだ……調教が足りないだけです」

「ふふ、やはり、君は面白いよ。精々、頑張りたまえ」


袁紹は一人、楽し気に笑い続けた。


つづく

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