第113話 兗州~豫州~揚州・逃げるっ!袁術さま 後編
馬車は捨てた。最後は良い
……
袁術は敵を出し抜いた事が愉快で、思わずほくそ笑んだ。
行先は決めていない。ただ走るしかない。
だが目立つ道は進めない。蜘蛛の巣が幾重にもかかる獣道に入った。
昼間なのに深い森に潜み、紀霊が兵士を集めるのを待つ事にする。
二日後。
封丘から脱出した袁術軍が、
精鋭兵が農民に変装し、情報収集をしていたのである。
襄邑は曹操の管轄地である
……自分の管轄地を越えて追撃してこないだろう、常識的に考えて。
豫州に逃げ込めば助かる、いや実質的な勝利である。
紀霊、よくやったぞ……!
袁術は満足気にうなずくと、使い慣れてきた細い獣道を通って彼の元へ急いだ。
襄邑に着くと、まばらになった自軍に唖然としながらも紀霊に感謝し、労をねぎらった。紀霊も主人の無事に嬉し涙を流した。
……ふむ、兵士を連れて避難できたのは、追撃も終わったからだな。
袁術は安堵し、隠していた自分の旗を誇り高く掲げた。
とたんに身が震えだす。ここ数日で何度も体験した悪寒である。
その確かな感覚に、自分の中で第六感、あるいはそれ以上の鋭さが目覚めつつあるのを感じながら、振り返る。
恐怖と寝不足と疲労からの幻覚と幻聴かと思ったが、違った。
かすかな地響きと共に、もう見たくない騎兵隊と黒い影たちが迫ってきている。
「曹操軍はまだあきらめてなかったのかっ!?」
紀霊は叫んだが呼吸を忘れているのか、やけにかすれていた。
……まさか。追撃を止めたのは、袁術様が合流するのを待っていたからか。
また、我々は踊らされたのかっ?!
「袁術さまっ!早く逃げ……」
すでに、主人の姿はなかった。
……さすがは袁術様っ学習していらっしゃるぞっ。
次に到着したのは、
まだ兗州内ではあるが、いい塩梅の廃城を見つけたのだ。
夜の闇に紛れて逃げ込んだ。
ようやく屋根のある場所で眠れる、と皆は疲れ切っているはずなのにはしゃぐように休息の準備をしていた。
すると、ぴちゃりと、水が床に染みこみ、見れば廊下から流れ込んできている。
見ているうちにそれは一面に広がり、兵士たちは騒ぎ始めた。
どうやら水漏れの原因は、曹操軍が堀を壊したからなのだという。
地味だが、疲労困憊の末に寝る寸前を邪魔されたのは、精神的に効く攻撃だった。
……曹操めっ、なんて陰湿な事をするんだっ。
「水の勢いが増しています。城門を開けなければ、城の中で溺れますっ!」
紀霊は悔し涙を浮かべ、袴を上げて軍靴を両手に持ちながら報告する。
城の外は当然、包囲されている……。
寝台に乗った袁術は決死隊を募ると、自分の周りに兵士の壁を作らせた。
そして馬に乗り換え門を開いた途端、大量の水と共に飛び出す。
闇の中を駆ける。さっきまでの眠気が嘘のように目が冴えている。今夜は徹夜だ。
やがて空が白み始める頃、すでに自分たちが
夜の暗黒を抜けるとともに、ついに曹操の兗州も脱出したのである!
まだ兗州のそばではあるが、人様の州である。さすがに追撃してこないだろう。
袁術は兵士らと共に、喜びの声を上げた。
そして春の柔らかい芝の上で、数日振りの睡眠と休息を楽しみ始めた。
朝露が軍服を汚すのも気にせず、清い空気に癒され、空と雲を眺める静かな時間に、思わず笑みがこぼれる。
州を越えただけでこの別世界、平和があった。
曹操がいない世界。
やっと悪夢から解放されたのだ。
袁術はさっそく側近たちと、次回の兗州侵攻を話し合った。
陰湿な悪鬼である曹操をどう始末するかが主題である。
……今回は、情報収集などに不備があったように思う。
その責任者を処罰すれば、軍隊の問題はなくなるだろう。
そしてできるだけ多くの兵士を連れて、兗州に侵攻するのだ。
自分が受けた屈辱の何倍の復讐を、曹操と兗州にしてやる。
そのような活気にあふれた話をしている時だった。
遠くでかすかな断末魔が響き、のどかな時間を切り裂いた。
やがて悲鳴と甲高い刃物の音が近づいてくる。
袁術はあわてて立ち上がると、黒衣の兵士たちが自軍を浸食しているのを見た。
「おい、何、勝手に入ってきてんだっ!ここは他州だぞっ!常識がないのかっ!」
袁術は怒鳴りながら手早く、一番元気の良さそうな馬を将兵から奪った。
紀霊が叫ぶ。
「豫州も安全ではないのかもしれませんっ!とにかくどこまでも逃げるのですっ」
緊急時で指示が出せず、何もわからない兵士が犠牲となって混乱している間に、側近と護衛だけで素早く戦場を脱出し、森に隠れ潜んだ。
そして数日後、紀霊が残党をまとめ、合流をする。
二人の手順は、すでに阿吽の呼吸となってきていた。
六日後。
なんと豫州を横断する寸前である。それでも、まだ追撃軍は後ろをついてくる。
この曹操軍のしつこさは、はっきりいって異常である。
だが奇怪なのは曹操だけではない。
ここまで深く、他州の軍隊が二軍も侵入してるのに、豫州牧は全く反応しないのである。どうやら、見て見ぬ振りを貫くつもりらしい。
……誰だか知らんが豫州牧め。もしも豫州軍が曹操を攻撃するなら、我々も協力してやってもいいのに!根性のないヤツらだっ。
疲労と睡眠不足の極限の中、無限地獄にも思える草原を駆け抜け続ける。
袁術は今やこの世のすべてが忌々しく感じた。その中でも曹操が最も呪わしい。
……あいつ、いつもオドオドして、私や袁紹に媚びを売り、命令を聞く事しかできないヤツだったのにっ。
そんな格下に追われているなんて、完璧な悪夢だ。
七日目。
袁術は
……この短期間で豫州を横断した、だと?!
追われていたとしても、この尋常ではない速さ。普通の人間にできる事ではないっ!
自分の新たな可能性に感動し、また、謎の達成感に浸っている時であった。
「曹操軍がっ!!曹操が、引き返して行きますっ!!」
その報告に、袁術を始め、残った数千人の兵士たちは大歓声を上げた。
……ついに、曹操は本来の弱気を見せて、引き返していくのだ。
袁術は両手を上げて、天に向かって雄たけびをあげた。
……勝負は引き分けだが、曹操は諦めた。私は、真の戦いには勝ったのだ!
湧き上がる自信を新たに、天下へ歩み出した初陣の成果に、大きくうなずく。
つづく
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