第112話 兗州・逃げる!袁術さま 前編

馬車は脱兎となって飛び跳ねる。大きな衝撃と着地の打撃音で身体と耳が壊れそうだった。とても座っている事はできない。

人だか石だか、とにかく何かに連続して乗り上げているのだ。

このような過酷の中、袁術えんじゅつは静かに耐えている。

だがその心は、激怒と闘志が嵐のように渦巻いていた。


馬車馬ばしゃうまを何頭潰したかわからない。

そのたびに将兵の馬を奪い、輓具ばんぐを迅速に取り付けさせ再出発する。


これほど焦っているのは追撃隊が追ってくるからである。

劉評との戦いが残っているので曹操自身はいないだろうが、やけに大規模なのが不気味だった。

騎馬隊、歩兵、青州兵とまるで本隊のような構成なのだという。


最後尾は何度か追い付かれ、局地的に戦闘が起こっていた。

言い方は悪いがそれが足止めになっている。


陽が沈んでも休む事なく封丘ほうきゅうへの行軍は続いた。

参謀が走りながら馬車に飛び乗り、作戦を提案してきた。

封丘に残してきた軍に待ち伏せさせて追撃軍を迎え撃たせる、という内容であった。


だが、それはあっさり失敗した。

封丘手前で追撃軍が一気に追い上げてきたからだ。

陣地には帰還と同時に、敵の騎馬隊はもちろん、歩兵なのに黒衣の殺戮集団までなだれ込んできたのである。


袁術は指揮ができる安全圏まで走り続ける事となった。

外が気になり、馬車の戸をあけ覗き見る。


後方では、匡亭きょうていの出来事が再生しているのかと見紛う苛烈な蹂躙が封丘でも広がっている。


……これではまるで、自分が曹操に自軍までの道案内をしたようなものではないか、とは思わなかった。

兵法書を完全に無視した相手の早すぎる移動が悪いのである。


そもそも、曹操が劉評と戦っていると聞いた時からおかしかった。その到着が予想外に早くて急がされる羽目になったのだ。

そしてこちらの計画が崩れ始めたように思う。


袁術はハッとした。

曹操軍は本当に移動が早かったのだろうか?

もしかしたら、偽の情報も混じっていたのかもしれない。

居場所や姿など、簡単に偽造できるではないか……?


曹操に騙されたのかもしれない!と想像すると、袁術は血が沸くような怒りで喚きそうになった。


……もしもわが軍が騙されてたというのなら、情報を精査できなかった斥候と伝令は全員死刑だ。あとでしっかり取り調べて処罰しなければ……。


眼光鋭く宙を睨む目の隅に、曹兗州牧そうえんしゅうぼくの旗が入り、一瞬で怒りは慄きに変わった。


……まさかっ、追撃隊に曹操もいたのかっ!

一瞬ひるんだが、今度は旗を睨みながら相手を呪った。


……あいつ、以前は私が気にかけてやったのを忘れたのか。

宦官皆殺しの時には安全でどうでもいい門番に回したり、帝探しを希望したから夜中も居残りさせてやった。

そして董卓から逃げる時には嫁と子供もかくまってやった。

あの時はついでにあいつの兵士を奪おうとしたが、奴の何番目かの奥さんが阻止してきて驚いたものだった。

あのように賢くて度胸のある女は見た事がない。

まあいろいろ世話してやったのに、あの恩知らずめっ。


「ふんっ、おい見ろ!曹操の旗だ」

袁術は腹立ちを紛らわすように言葉を吐き出す。

「あいつ、劉評との戦いを放り出してこちらに来たのだっ。いい加減で最低な最高指揮官ではないかっ」

「それが、劉詳はすでに敗れたそうです……」

護衛兵の返事に、袁術は怒りが倍増した。


装甲馬車が突然止まり、安全圏に着いたと思った袁術は戸を開けた。

そのとたん、紀霊きれいが報告してきた。

彼が焦っているのを見るのは二度目である。


「ここもダメですっ!続々と周囲から曹操軍が集まり、早々と我々を包囲しようとしています!

ここはヤツの管轄地なのですから、いくらでも、騎馬や兵士、武器が集まり、補充、替えができますっ。ここにいるかぎり、我々に勝ち目はないっ!

早くこの兗州えんしゅうから、魔物の巣ような場所から逃げるのですっ!」


紀霊の言葉に、袁術は「卑怯者!」と怒鳴った。


「今も戦っている兵士がたくさんいるのだ!彼らを見捨てる事はできないっ。

黒山賊こくざんぞく於夫羅おふら軍も戦わせるのだ!

やつらは曹操と何度も戦ったのだ。弱点を知っているはずだろうっ」


「昨日のうちに、彼らは逃げましたよっ。

曹操を知っているからこそ、迅速に逃げたのでしょうよ」


袁術は一瞬、すべての感情が吹っ飛び、無になった。

そのおかげか妙に落ち着き、頭にスッと新しい考えが浮かんだ。

……これはもしかして、夢の中ではないのか……?


その時、血塗れの斥候が駆け込んできた。

「前線はほぼ全滅……曹操軍は続々と集まり、封丘を包囲しようとしております……。このままでは、四方から食い尽くされます……」

息絶え絶えに報告し終えると、倒れて動かなくった。


袁術は夢から醒めたようにキッパリと封丘を捨てる英断をした。


つづく

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