第111話 バトル・オブ・匡亭
馬車が大きく揺れ、妾二人は悲鳴を上げた。酒もこぼれるので飲めなくなった。
初陣だというのに突然の不便に不吉さえ感じる。
不快だが行軍を急ぐためには耐える事も主君の仕事だ。
目指す
そしてなにより重要な情報として、曹操の本陣が手薄だというのだ。
「ふむ、劉評との戦いが拮抗し、護衛兵も戦いに出しているのだな。
匡亭に到着したら、ヤツの本陣を急襲してやろう」
翌日、匡亭に到着すると劉評と合流せず、さっそく曹操の背後へと回った。
波のようにうねる丘陵地帯の奥、最も高い丘の上に目的の人物はいた。
巨大な日輪の下、的のように目立つ
後方を全く気にしていないのは、その余裕がないからだろうか。
前方で繰り広げられる劉評との接戦というから、目が離せないのだろう。
その無防備な姿に、袁術は猛った。
「よし、ヤツがこちらに気づいていない今が勝機だ。全軍、突撃しろっ!」
馬車から身を乗り出し、吼えるように命令する。
「ま、待ってください。まずは伏兵の確認を……」
あわてて
「ばかっ伏兵は森や叢に隠すものだろう。
ここには短い草しかない。隠れられるわけないだろう」
話すうちに、袁術の豪華な馬車の両側を、騎馬隊や歩兵部隊が駆け抜け、その轟音に会話は強制的にかき消された。
駿馬はすでに緑の波をひとつ勢いよく下り、姿を消した。
あの速度で丘陵を越えていけば、すぐにでも曹操に迫れるだろう。
湿った匂いがする土埃が落ち着く頃には、万が一の場合には袁術を守ろうと、多数の将軍と参謀たちたちが集まっていた。
「おめでとうございます。袁術様の援軍で、勝負が一瞬で決まりましたね」
気の早い参謀が、祝辞一番乗りをした。
「ふむ、当然の結果だ。前日に思いついた作戦が上手くいった。退屈なほどだ」
英雄会見のように袁術は答えた。
「曹操は小物ですから、攻略は簡単でした。
しかしその奥にひかえる
なんせ、腹違いとはいえ袁術さまの兄上ですからね。
はるかに知恵があり、軍隊も手ごわいでしょう。
その時には、袁術様も本気を出さなくてはいけないかもしれませんね」
「うむ。今回のように私にばかり頼られては困る。次回は、お前たちにもしっかり働いてもらうからな」
そのような話をしているうちに、ふと、自軍の一部が消えてしまった事に誰ともなく、気が付いた。
手前の丘の下に騎馬や兵士が降りてから、誰も曹操のいる場所まで登って進撃していないのだ。
……おかしい。
丘の下に穴でもあり、そこに落ちて没収されたように誰も出てこない。
沈黙が続いたおかげで、どこからか、短い悲鳴が聞こえるのに気が付いた。
同時に、袁術は自分の手が急速に冷えてくるのを感じた。
鼓動が早鐘のように打たれ、警告を発している。
……ここは、ここにいるのは……。
「……おや、兵士たちは、一体、どこへ?」
誰かがいまさら、誰も答えられない質問を発した。
その、皆がわずかに気を取られた瞬間である。
それは丘の下から湧き上がり、溢れ出した。
墨汁のように漆黒の影は、すでに潰した騎兵と歩兵だけでは足りぬというように、残る袁術軍にぶつかるように襲い掛かっている。
唖然と見ている間に、手際よく躊躇ない殺戮が自軍を浸食していく。
「な、なんだ、あれは……?」
自分の兵士たちが瞬時に死んでいく様子をぽかんと見ながら、袁術はつぶやいた。
「……ひ、人です……黒衣の人が……」
参謀は震える声で、見たままを答えた。
すでに影の獰猛さを察知した者は、逃げ出し始めている。軍隊崩壊の予兆だ。
兵士が一人逃げると、その周囲の者が連鎖するように抜け、やがて集団で駆けだしていく。
「こら!逃げる者は処刑する!まずは、あの黒衣の集団を討つのだ!」
袁術は馬車の中から厳しい声で命令したが、その声に被せるように、参謀役が叫んだ。
「だめですっ、奴ら、こちらに向かってきています!はやく、逃げなければ!」
そのとたん、袁術は彼を斬った。
だが急所ではなかったので地面に倒れ、激痛に絶叫しながらのたうち回る。
「こいつのように、私の命令を聞けない部下は斬るっ!
まずは、防備を固め、黒い集団から私を護れっ。そして、やつらを倒すのだ!
弱小の曹操軍なのだぞ!袁紹はもっと強い!我々はもっと強いのだぞっ!」
「はいっ」
屈強な兵士たちが肉の壁となるために集められるのを見届けて、袁術は豪華な馬車の中へ入った。
「素晴らしいご指示で、うっとりいたしましたっ」
妾の一人がしな垂れかかってきたので、袁術は殴り倒した。
女が転がり酒や備品にぶつかり、大きな音を立てる。
「戦場だ!静かにせんかっ」
もう一人の妾は自分の口を手で抑え、静かにしているつもりなのだろうが身体を震わせガタガタと音を立てている。……すべてが苛々する。
自分でも説明のつかない怒りの中で、馬車の引き戸の向こうから必死の声が聞こえた。
「袁術さまっ!早く退却のご指示をくださいっ!
我々だけでは、持ちこたえられませんっ!
早く、撤退のご決断をっ!」
これほど焦る
だが、相手が焦るほど、逆に心は落ち着くものだ。
剣を抜き、紀霊に怒鳴り返した。
「よし、私が出ようっ!馬を用意せよっ」
噛み合わない答えを颯爽と言いながら戸を開けて袁術が見たのは、護衛部隊が崩壊し始め、野蛮な殺戮集団が迫っている様子であった。
陰惨な悲鳴が間近であがり、思わずそちらを振り向く。
黒い兵士が重厚な鎧を着た護衛兵の顔面を抉り、首を斬り飛ばした。
抵抗する兵士がいれば、その背後からも飛び掛かり協力して殺害し、またそれぞれ次の獲物へと移動していく。
彼らは負傷するとすぐに退く。しかし数人が退いたり、撃退されようとも、次から次へと波状となって押し寄せてくるので意味がなかった。
集団となりお互いを補うように動く彼らは、まるで一つの巨大な生命体のようにも見える。
「な、なんだ、あいつらは!人か、獣か、いや、バケモノかっ!」
「彼らは、曹操が手懐けたという黄巾賊の残党、
彼ら百万人と戦い、三十万人の兵士を降伏させたと聞きました。
こんな荒くれたちをどのように服従させたのか、まるで見当がつきませんがね。
その青州兵たちを数千人、参戦させているのでしょう。
たった数千人に、我々は今、蹂躙されているのですっ」
紀霊は、こんな悠長な憶測の話をしている場合ではないとわかっている。
だが、相手を説得するために根気強く続けた。
「伏兵である青州兵を、曹操は丘の下に伏せて隠していたのです。
目の錯覚を利用したか、我らの死角に移動していたか、本当に穴を掘ったのか。
とにかく上手く伏兵を隠していた。
そして兵士たちは、彼らのいる場所に無防備に飛び込んでしまったのです。
我々は、完全に罠にかかったのですよっ。
もしも追い打ち用の伏兵がいたら、私たちはあっという間に全滅してしまうっ。
早く、ここから逃げなければっ!」
袁術は紀霊の頬を張った。
「ふざけるな!私は、到着したばかりなんだぞっ!
着いたとたん、また封丘へとんぼ返りなど、恥ずかしくてできるかっ!
とにかく布陣して、体制を立て直し反撃するのだっ!
曹操なんかに、格下の、
この戦いは、袁家の誇りがかかっている一戦なのだっ!
はやく、なんとかしろっ」
ひゅんっと、頬の横に何かがかすめて袁術は反射的に身を縮めた。
馬車の壁に、血塗れの歪な形状をした短剣が刺さっている。
袁術はあわてて馬車の奥へ入り込んだが、一瞬、丘の上の曹操が目の端に入った。
最初に見た時と変わらない、小さな背中が見えた。
……まさかあいつ、一度もこちらを振り返る事なく終わらせるつもりなのかっ?!
焦りと怒りが混ざり合い鬼の形相と化した袁術は、御者に全速力で封丘へ戻るように指示した。
そして迅速に、妾をはじめ自分以外の物を全部殺戮の庭へ投げ捨てる。
馬車は狂ったように味方も敵も跳ね飛ばし、死地を駆け抜けた。
つづく
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