第109話 青洲・願い
味方から離れ、敵も彼に合わせて距離を取る。
果てない敵刃の中心でただ独り、悲愴も絶望もなくせめて装う優雅もなく、有るのは……。
「関司馬、あなたとお話ができる事、光栄に思います」
少女は盾の奥から背伸びをして、少し顔を出すと武人に声をかけた。
彼のように堂々と前進できれば格好いいが、それはできない。
どこから矢や槍が飛んでくるかわからないからだ。
その昔、
……見映えのために命を懸けるのは、自重しておこう。
「私は
こちらは私の副将、
夏侯惇も少女の横から顔をのぞかせ、相手に軽くおじぎをした。
こんな場所でなければ「お元気そうで何よりです」と声をかけたい所である。
「私は、関羽あざなは雲長、劉備軍の司馬を務めております。
思いがけない機会をいただき、感謝いたします」
髭が特徴的な青年は拱手して一礼をした。
少女と傍らの青年もそれに習い、礼を返す。
二人が顔を上げる間も惜しいように、髭の青年は話し出す。
「いきなり図々しい事を申します。
私が隣の死地へ行くことを、どうか許していただきたいのです。
あちらには私が兄と慕う
その唐突な願い事に、わずかに瞳を見開いてから、少女は答えた。
「なるほど。劉備殿と張飛殿を助けたいために、あなたは進撃を止めたのですね」
「あなたの軍は、殺意がない。
あなたはこの戦い、やる気がないのではありませんか?
もしもそうでしたら、私が兄者と弟者を助けるために、ここから去る事を許していただきたい」
少女は微笑んだ。
「なるほど」
微笑んだまま、やや鋭く見つめた。
「ただ、あなたが降伏せず隣に行くとなると私たちは追撃せねばなりません。
ですが、もしもここであなたが私に降伏して下さるなら。
私が
それならば、きっとお二人と無事に再会できるでしょう。
その後、劉備殿も私の軍に入るように、説得していただきたい。
いかがですか?」
「それは、できません」
髭の青年は即答で拒絶した。
「私が仕えるのは劉備殿、ただ一人です。
私は彼に助けていただいた時にそう心に誓ったのです。
彼が死ぬ時は、私も死ぬ時だと、ひそかに決めたのです。
ですので、私はあなたに仕える事は、できないのです」
「なるほど、わかりました」
少女は感慨深げにうなずいた。
「そのような一途なお気持ちは、いつの時代にも変わらずに美しいものです」
聞いていた夏侯惇も、感じ入った様子でうなずいた。
「では、あなたは劉備殿を救うために隣の死地へ向かって下さい。
申し訳ないが、私たちは追撃させていただきますので、どうぞお気をつけて。
ご武運を祈ります」
少女が寂しそうに言うと、馬上の髭の青年は再び拱手し、深々と一礼した。
「これほどあっさりと願いを聞いて下さるとは、思いもよりませんでした。
必ず私は兄者と弟者を助けます」
そして顔を上げて続ける。
「あなたは追撃する事を謝る必要はありませんよ。
私たちは敵同士なのですから殺しあうのが当然、正常の関係です。
どうぞ遠慮せずに、追撃してください」
少女はやや苦笑いを浮かべた。
「寂しい事をおっしゃらないでください。
きっとまた、思いがけない所で会いして、今度はゆっくりと話をしましょう」
「わかりました。また、お会いしましょう。私もあなた達のご武運を祈ります」
そう言うと、髭の青年は馬腹を蹴り、急旋回した。
彼が進むと白刃の水面は自然と開き、彼の兵士たちもその道を使い、隣の戦いの坩堝へ向かう。
「自分の死を前にして、恩人を助ける事を願うとは、立派でしたね」
青年は土煙に霞む関羽軍を見つめながらつぶやいた。
少女はうなずいた。
「死を前にして言う言葉には、偽りはあるまい。
彼もまた、忠義の人だ。
この荒んだ世界で、そのような純粋な願いを持ち続けられる人は稀だ」
「そうですね。彼の望み通り、心に決めた人と一緒に生きて、死ぬ事ができればよいのですが」
「きっと彼らにも、私たちのように物語があるのだろうね」
「彼らだけでなく、誰もが一人ひとりに物語があるのですよ。
……ところで」
「関司馬にあっさり袁紹殿を攻めさせて大丈夫なのですか?
この行為、寝返りや裏切りといっても反論できませんよ」
「あははっ」
少女も夢から目覚めたように、パッチリと大きな瞳をして青年を見上げて笑った。
「えっと……そうだな。
関羽殿が降服すると嘘を吐き、劉備を説得してくると言って移動したのです。
私たちは騙されて、見逃してしまったのです。
追撃が遅くなったのは、関羽を信用して待っていたせいです。
と、言っておこう。
怒られるかもしれないけど、まあ、頑張ってあざとく謝れば許してくれるはずだ」
夏侯惇は目を輝かせた。
「なるほど、
「ふ、まあね」
少女は得意げに澄ました顔をしてから、ふと、眉を曇らせた。
「どうしました?」
「すこし気になったのだ。
関羽殿が助けに行った劉備殿とやらが、すでに戦線離脱していなければいいのだが。
ま、関羽は劉備が生きていれば、それで満足かもしれないけど」
「へっ?ま、まさか」
夏侯惇は目をパチクリとさせた。
「隣はまだ戦争中ですよ。
指揮官はできるだけ、最後まで残るものです。
そうでなければ、指揮者がいない軍隊は、簡単に崩壊してしまうと兵法に……」
「だが乱戦になれば、指揮者は用無しになるだろう。
しかも敵も味方も、兵士自体が良い目くらましに変わる。
隣はまさにそれの真っ最中だ。
生き残りたいなら、そのような戦法もあると私は思うよ。
絶望的な戦場では、とくにね」
「それは、捨てる事が上手な人でないと、できない戦法ですね……。
まあ、本当にそれが行われていれば、ですけど」
青年は憂いの方角を見つめた。
「今はただ、ご忠義ある関羽殿のご無事を祈るばかりです……」
はたして、劉備軍は敗北した。
袁紹ははちゃめちゃに上機嫌となった。
劉備という配下の敗北を知った
イナゴのように憎たらしい公孫瓚をここまで怯えさせたのは痛快だ。
そしてこの使い魔がいなくなった
ついに、兄弟喧嘩が直接できるのだ。
……あの戦争シロウトが。私と曹操がどれだけ泥と血に塗れて大量殺人の経験値を積んできた戦争玄人か、思い知らせてくれるわ。
いつもと変わらない宴会が、まるで天界の音楽を聴き、星の雫の美酒を飲み、仙女の歌舞を愉しみ、平和な世で笑っているような、際限ない喜びの時に感じている。
袁紹は勝利の美酒を飲み干しつつ、そわそわと一人思いを巡らす。
……自分と同じ一族である袁術を倒せば、自分に匹敵する強者は地上からいなくなる。それはつまり、自分が……。
鼓動を高鳴らせて思った時、ふと、隣でうつらうつらとする少女が、視界のすみにちらりと入った。
……こいつも、いつか私の配下にできればいいのだが……。
そう思ってから、ふと、いや、と思う。
……いや、なぜに、こいつを配下にせねばならん?
こいつから、私の助けになりたいと、言うならまだしも。
それに、こいつ程度の才能など、すでに私の部下にたくさんいる。
そして酒を一口含み、少女を見下げた。
……こいつは、自分の立場をいまいち理解していないのが欠点だな。
今は使い道があるから、私に生かされているだけなのだ。
その事をこいつは心の底からはまだ理解していないのだ……。
つづく
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