第108話 青州・武神を囲う

「最前線は、完全に二つに割れております……」

物見兵が高台から震える声を抑えて、報告を続ける

「ですが兵は逃げず、陣形は変形しておりますが、崩壊しておりません。

敵は間も無く、陣の中心、歩兵隊へ到達します」


「了解した」

そう応答した少女に、皆、注目した。


軍師の戯志才ぎしさいは、固唾を呑んだ。

恐ろしいからではなく、勝機を感じて胸が高鳴っているからである。


……この状況、我々が蹂躙されているようだが、そうではない。

敵は混乱を狙い深く陣中に侵入してきたが、陣形死守の命令により、変形はしているが崩壊するには至らなかった。

そのため敵は陣中という巨大な罠に深入りしている状態になっているのだ。


その上、こちらは鶴翼陣形をしている。

今は広がっている両翼を閉じれば、完全包囲する事ができるだろう。

後は殺戮するだけである。


……奇襲のような正面突撃に驚いたが、あわてずに対処した事で好機を得たのだ。


軍師は一瞬、戦場という魔物を捉えたような錯覚に陥りかけたが、その尊大な妄想を振り払うように首を振ると、我が将軍に尋ねた。


「両翼を閉じて、包囲を開始しますか?」


「包囲はする。応戦はしてもいいが、こちらからは攻撃はするな。

敵将を、生け捕りにしてほしい」

皆は驚きに満ちた目で少女を振り返った。


「私はここで武神殿とお話をしたいのだ」


無邪気に言うが、危険極まる作戦、いや、思い付きである。


……この人、また妙な事を言い出したな……。

と司馬の荀彧じゅんいくは思ったが何も言わず、顔にも出さなかった。

この妙ちくりんな自由な発想が、良い結果になる事も多い……。

反射的に注意するのは、相手の長所を潰すような気がするのだ。


「まずは包囲して、様子を見る」

その命令が出されると、少女は伝令兵を呼んだ。

「敵軍の指揮官へ、私と話をしてほしい、と伝えてきておくれ」

伝令は仰天しつつも一礼して走り去った。


やがて巨大な両翼は旗をなびかせ、大きな地響きを立てて閉じられていく。

……突破してきた壁が戻っていく上、それ以上の厚さに変わっていくのだ。

敵からすれば、なかなか恐ろしい光景のはず……。


「この絶望的な状況でも、めげずに突撃し続け命を無駄にするつもりならば、私はそれに応える。その時はもう話さなくていい。当然、生け捕りにしなくていい」


「わかりました」

危険な思い付きを貫き通す気はないとわかり、荀彧はひそかに安堵した。


やがて地鳴りが消えると、両翼が閉じ切った余韻が土煙と共に漂う。

そして隣の袁紹軍が発する怒号や軍鼓が響いてくる。

誰もが持つ闘争本能のままに殺し殺され続けている。

彼らこそ正しい。これこそ本来あるべき戦争の姿なのだ。


しばらくすると、高台の物見が叫んだ。


「敵の進撃と攻撃が、完全に停止しましたっ」

その報告に、周囲の者はどよめいた。


「現在、歩兵隊の中段にて、伝令が相手指揮官と交渉しております……」

戦場にしては奇妙な光景に、報告も戸惑い気味の様子である。

応戦の喧噪も、今や完全に止まってしまった。


荀彧は緊張感に駆られて、思わず我が将軍を振り返った。

すると少女はすでに下馬し、いそいそと歩き出そうとしている所だった。

「ど、どこへ行くのですかっ?」

慌てて問うと、少女は振り返った。


「もしも武神殿が私と話をしてくれるのなら、待たせるのは悪いだろう。

だから、今のうちに近づいておこうと思ったのじゃ」


「おや、それは素晴らしいお気遣いですね」と、平常時なら褒めただろう。

だが、今は非常時なのである。

指揮官が危険な事をしてはいけませんよ、と注意しようとした時には、すでに少女の姿は兵士たちの間に消えていた。

副将の夏侯惇かこうとんが袖なし外套をひるがえし、追いかけていくのが見えた。


二人は護衛隊の囲いをすり抜けると、騎馬隊、歩兵隊、さらに盾を並べて警戒している敵との最前に立つ兵士たちの所まで来た。

そしてそっと、盾と盾の隙間から前を覗いた。


不自然な空間が、ぽかんと広がっている。


その奥に、見慣れぬ鎧の一団が不穏な得物を剥き出しのまま佇んでいた。

敵の指揮官と伝令が、適切な距離を置いて話をしているのが見える。


「あっ、あの人。あなたの食事の誘いを断ったひげの青年ですよ」

「え、そうだっけ……?」

少女のもやもやした返事に、青年は答える。

「おや、忘れてしまいましたか?

建業けんぎょうへ向かう港町で道案内のお礼に食事を奢りたいと、あなたが彼らを誘ったでしょう。

そしたらあの人が、結構ですって即答したじゃありませんか。


一瞬で場が凍り付いて、劉備殿まで固まってました。

今思い出すとちょっと笑えますね。


……まあ、私たちはあれから大変な事がありましたから、このような素朴な思い出は、霞んでしまっても仕方ありません」


「あっ、思い出したよ」

少女はすっきりしたように瞳を大きく開き、皮の手袋をはめた手を合わた。

「キミはそういう事をよく覚えているね。まるで二人で、ようやく一人前の記憶だ」


「大げさですよ。あなたはあの時、疲れてずっと寝ていたから、彼らの印象が薄いのでしょう。

それよりも長江ちょうこうの船旅は楽しかったですね。また一緒に行けたらいいのですが……」


「そうだね。そんな機会があればいいのだが。

それにしても、彼らとこんな場所で再会するとは思わなかったよ。

不思議な因縁を感じるな。彼らとも、君のように仲良くなれればいいのだが」


「ははっ、あなた前回、すごい勢いで拒絶されたのに前向きなのですね。

ちょっと笑ってしま……」

少女はムッとして、夏侯惇の口を手で塞いだ。


やがて伝令が引き返してきた。

少女が盾から顏をのぞかせると指揮官が不用心にも最前線に来ている事に驚愕しつつ、駆け寄った。


関羽かんうあざなは雲長うんちょう司馬が、ぜひ曹兗州牧そうえんしゅうぼくとお話をしたいそうです」


「おお、わかったっ」

次はなにが始まるのかと、不安と緊張にあふれる兵士たちの合間で、少女は場違いに喜んだ。

「完全包囲しとるのじゃっ。ぜひ降伏してもらって、うちの軍に入ってもらえないか交渉するっ」


「えっ。やれやれ……」

夏侯惇も少々呆れたように、我が指揮官がはしゃぐ様子を見つめていた。


つづく

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