第107話 青洲・兵法なんていらんかったんやっ!?

「単純に兵法を知らないのかもしれない。劉備りゅうび殿は勉強嫌いな人なのかもね。

あるいは、知っていても使いこなせないのかもしれない。


兵法とは、戦争の技術だからね。

知識は本を読めば誰でも得る事ができるが、使いこなせるかは別の話さ。

教科書に書いてあるからといって、山に登れば常に勝てる、とは誰も思わない。知識力と技術力の違いは、たぶんそういう所だ。


それと、劉備軍は兵士を公孫瓚こうそんさんから、いくらか借りていると聞いた。

借り兵では、複雑な作戦は実行できないとわかっているのかもしれない。

だからあえて、何もしないのかもしれないよ」


「な、なるほど。では、無防備戦法、というやつですか?」


「ふふ、なにそれ。ま、相手が読めない時は、それでいいんだよ。


そもそも他人が自分の予想通りに動いたり、考えているわけがないんだ。

日常でもそれが当たり前なのに、戦場では尚更さ。

何か起こっても、できるだけ慌てず対処できるかが最も重要なのさ。


青洲兵を予備として隠しているのは、そのためだ。

もしもの時は彼らで、まあ、すべてをご破算にできるからね」


戯志才ぎしさいは拱手し一礼した。


「兵法を知ると、それに頼りがちになります。

ですが何事も柔軟に考えていかねばならないと思い出しました。

改めて、あなたの近くで働ける機会に感謝いたします。


……ところで、話は変わるのですが。


この寡兵と、大軍の戦い。

私は、曹兗州牧と董卓とうたく軍の徐栄じょえい将軍と遭遇戦を思い出しましたよっ」


「あぁ……あの時は、盛大に負けたねぇ……」


少女がしょぼんして呟くと、いつの間にか隣にいた夏侯惇元譲かこうとんげんじょうは突然両手を打ち、にこやかに言った。


「ああっ、私も思い出しましたよっ」


「そう。あの全滅した戦いが、君にとっては笑顔になれる素敵な思い出なのかい?」


「いえ。そっちの思い出ではありません。私が思い出したのは劉備殿の事ですっ」

「へえ。で、彼と知り合いだったのかい?」


「いえ、ちょっと話しただけの間柄です。


徐栄将軍の名前で、思い出したのです。

彼に壊滅させられたあと、私たちは兵士を募集するために揚州ようしゅうに行ったでしょう。


あの時、あなたはグウグウ寝ていて、おかげで私は迷子に、あ、道で困ったのです。

その時に親切に声をかけてくれた三人組の一人が、劉備殿でした。


さらに公孫瓚の部下にならないか?って私を誘ってくれたし、十中八九、あの人のはずです。


いやあ、彼らも元気に頑張っていたのですねぇ。一緒にいた二人もいるのだろうか」


油断すれば、病死、餓死、戦死など、簡単に命を失う厳しい世の中である。

今は敵だが相手の健在を喜ぶように、元譲は嬉しそうに語った。


その話を聞いて、少女も思い出した。


……あの時、自分は反董卓はんとうたくの「自称・奮武将軍ふんぶしょうぐん」だった。

そして劉備りゅうび殿の上司である公孫瓚こうそんさんは、董卓とうたく政権下の「正式・奮武将軍ふんぶしょうぐん」だった。


……この偶然を知った時はとても驚いたものだった。今ここでまた出会うとは、ちょっとした因縁さえ感じる。


そのうちに号令がかかり整列すると、開戦前の袁紹えんしょうの演説が始まった。

攻めるなら今だろう、と、ひそかに劉備軍に念を送っていた時である。


「敵軍がっ!騎馬隊が二軍、物凄い勢いで突っ込んできますっ!

将軍旗を先頭に、魚鱗の密集陣形ですっ」


魚鱗とは、文字通り△の鱗型となり敵軍隊を貫く陣である。

巨大な槍の先端のようにも見えるだろう。

二軍はそれぞれ袁紹、曹操、この二名の指揮官を目指していると思われる。


物見の叫びに、少女と周囲は同時に前のめりになった。


まだ遠い地響き、そして土煙が立ち昇り始めている。

となりの袁紹軍はすでに矢を撃ち始め、当然、演説は中断である。

少女はなにが可笑しいのか笑いだしたので、副将の夏侯惇かこうとんはあわててその口を押えた。


「これはっ!いにしえの戦場に、古の武神、項羽こううが降臨したようなムチャな奇襲ですっ。こういう漢らしい戦法、ちょっと憧れますよっ」

軍師の戯志才ぎしさいが興奮気味に叫んだ。


荀彧は涼やかな眉をひそめ、普段と変わらない落ち着いた声で答える。

「真似してはダメですよ。一般人向けではありません。提案しても私が却下します」


その間に、次々と報告が入る。

「緊急ゆえ命令なしで迎撃しておりますが、指示をいただきたい」

「敵進撃の進路にあたる部隊が、早急に指示を待っておりますっ」

「最前線の一部は完全に崩壊。混乱が波のように全体に広がっておりますっ。どう対処されますか?」


切羽詰まった報告にとくに焦る様子もなく、少女はおもむろに口を開いた。


「迎撃は続けろ。緊急避難を許す。だが、必要以上に逃げる者は厳罰に処する。

陣形死守に尽力せよ。崩す原因を作った部隊は、全員処刑する。


我らは相手を包囲する鶴翼への変化陣、相手はそれを突破する魚鱗の陣。

崩さなければ、我らが勝てる。逆に綻べば、内外から食い荒らされるぞ。

今はただ、持ち場にいる事を耐えろ」


その声は喧噪の中でも不思議とよく通る。

そして聞くうちに、伝令たちの表情から焦燥が消えた。


……陣形はこちらが有利、それに兵力だって、こちらが多いのだ。

たしかに落ち着いて陣を維持できれば、いずれ相手を囲み、勝てるだろう。

逆に大げさに騒いだり逃げ出せば、この大人数が混乱に拍車をかける。

強みが弱みに変わり、自滅の原因となるだろう。


……ただ、陣を維持すればいい。

そして彼らはその指示を広めるために、ふたたび走り去った。


「念のため、ここは護衛隊で重々に固めましょう。

後詰の青洲兵せいしゅうへいも、戦闘準備にするべきです。

騎馬隊へ遊撃準備の連絡も必要かと」


若き軍師、戯志才も興奮が退いたらしく冷静に提案する。


「そうしよう。緊急ゆえ、完璧は求めない」


「わかりました」

拱手しながら答えると、青洲兵と騎馬隊に向けて伝令を出す。

すぐに周辺では護衛兵の配置変えが始まり、にわかに慌ただしくなった。


報告によれば、隣の袁紹軍はすでに一斉攻撃の号令がかかり、血肉ごった煮の様相との事である。


……そうだ。目標は殲滅なのだから、こちらもそろそろ翼を閉じて、包囲を始めないと……。


徐々に迫りくる土煙を見つつ、しかしその決定的かつ簡単な注文を言う気には、なぜかなれなかった。そしてふっと、気が削がれたように笑う。


……古き良き武神ねえ……。

できればここで、少しお話しをしてみたいものだ。

きっと彼は恐れなど知らぬように、先頭を走っているのだろう。


つづく

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