第102話 兗州・天然埋伏の毒 その二

……田豊でんほう殿は、宦官かんがんたちが朝廷を乱し続けた事に失望し、中央から去った経歴がある。

曹兗州牧そうえんしゅうぼくへの異常な厳しさは、長年の積もり積もった憎しみで、その血族さえも許せないのだろうか……。


たしかに帝や政治を利用して横暴を極め、世を混乱させた宦官たちへの怒りはわかる。


だが曹操そうそうの祖父、曹騰そうとうは四人の帝たちを支え続けた功臣であり、その性格は恩着せがましい所のない、強欲や私利私欲とはかけ離れた人物だったのだ。


宦官にもいろんな人物がいる。当然だ。

だがそれを理解せず、あるいは知ろうともせず、ただ宦官という枠に対して反射的に憤っているのなら、田豊の憎悪は雑で適当も甚だしい。


だが今はそこから話すと長くなるので横に置いといて、荀彧じゅんいくは久々に面と向かって蔑まれて言葉を失っている主人に代わって、口を開いた。


曹兗州牧そうえんしゅうぼくは、袁冀州牧えんきしゅうぼくのために、命を懸けて働いてきたのですよ。


東郡とうぐんの山賊を討伐して勢力を弱め、兗州えんしゅう黄巾賊こうきんぞくから守りました。これはあなた方、冀州の防衛にも役立ったはずです。


ここまでやったのに、恩知らずはないでしょう。

作戦を拒否する権利くらい……」


「おや?」

田豊は相手の言葉を遮るように声を発した。


「どこかで見た、良い顏だと思ったら、荀い……?すまないな、うちは人が多くて、キミの名前はもう忘れてしまったよ。


いやはや、キミもおかしな男だね。

袁紹えんしょう様に直々召し抱えられたというのに、今はこんな所に勤めているとは。


まあ、人不足の曹兗州牧の所では、名家の君は大切にされているのだろうね。

だが温情に厚い君がいくら主を庇おうとも、無礼の罪は変わらんのだよ」


「もういい、田豊」

袁紹の静かな声が響き、男は我に返った。

「彼らは私の配下ではない。ましてやお前の部下でもないのだ。口を慎め」


男はサッと顔を紅潮させると、急に大人しくなり、主人に向かって深く一礼した。


「失礼いたしました。あまりに曹兗州牧が見苦しかったので、我慢できず注意いたしました」


「たとえ見苦しくても、誰でも自分の意見を言う権利はある。

それを聞いてどうするかは、私が決めるのだ。


私は自分の周りを、指鹿為馬しろくいば(意見する者を排除した逸話からできた四字熟語。馬鹿の語源)ような連中にはしたくない。


曹兗州牧は私に忖度なく意見してくれる、貴重な人物だ」


思わぬ助けに、荀彧は驚いた。

……まさか、袁紹に庇われるとは。


そして視線を少女に移す。

血の気の引いた白い小さな横顔は、まだじっと一点を見つめている。

その横顔に、自分の家族の面影が重なる。

……私の家内も宦官の血筋だ。きっと田豊は私の妻の事も……。


怒っても考えても、変えられない事はたくさんある。そうわかっているが、しかし……。

ただ、悔しさを我慢するように唇を噤んだ。


「ま。それはとにかく、青州兵せいしゅうへいを使うのだ。わかったな」

袁紹は唐突に話を戻して、そして一方的な結論を伝えた。


その強引さに戸惑いながらも、少女はふたたび「い」と口を開きかけたが、ふと、それを止めた。

相手の目の奥に漂う粘っこい熱、いや、圧力に気づいたからだ。


……ああ、青州兵の威力を見たいのだな。

しかも囮という決死状態にさせて、最高の破壊力を見たいのだ。

……そう決めたなら、もう引くつもりはないだろう。


そして自分の感情を隠すようにして視線を落とし、心の中で嘲笑する。

……だがまるで青州兵の使い方をわかっていない。

小分けにした時点で、彼らは弱い人間に戻るだけなのだから……。


……で、その弱い人間に戻った彼らを戦わせ、使い捨てにするしかないのか?


少女は小さくため息をつき、そして開き直ったように小さく頷くと、相手を見上げた。


「ええ、わかりました」


その声は、袁紹の押しの強さ、田豊の攻撃的な言葉が効いて、ひどく暗く重い。

彼らがもしも埋伏の毒なら、効果は抜群であった。


「ふむ、最初から、そう言えばいいのだ。

いつもお前と話をすると、無駄な時間が増える」


そりゃあ奇遇ですな、私もそう思っていました、とは言えず、少女はムスッとしながら、聞き流す。


「では、囮は私たちが選んでやろう。決まればすぐにでも作戦を決行するのだ」

「は」


言われるがままに返答する少女を、荀彧はただ見つめるだけしかできなかった。


つづく

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