第103話 兗州・空気が変わる瞬間

袁紹えんしょうたちが立ち去ったあと、ふと、本来の敵である陶謙とうけん軍を見れば、細々した煙があちらこちらから渦巻いている。昼餉ひるげを作っているのだ。


自軍の兵士たちも対抗するように、配給と携帯食を使い昼食の支度を始めている。

今あるたき火だけではすべての鍋を熱するには追いつかず、火種をもらって各自でも調理を開始している。


定番の干し肉を焙り、お粥に香草を添え、捕まえた蛇は丸焼きである。

横を見ると兵士たちはなんでもハフハフと美味しそうにかき込んでいる。


……なんせ兵士になる理由第一位は、食事ができる事、なのである。

そりゃあ兵士になれば、いつかは死ぬかもしれない。

だが食えなければ早くて三日で衰弱し、助けがなければ必ず死ぬ。

彼らは食べるために兵士になり、一日でも長く生き延びる為に戦場にいるのだ。

そんな彼らを、無駄死にさせたくはないのだが……。


そして戦場には、場違いなゆったりとした時間が流れ続けている。

……やはり、陶謙とうけん軍には殺気がない。戦う気がないのだろう。

こういう場合、キッカケがあれば簡単に敵は軍を退くと思われる。


たとえば、彼らの兵糧ひょうろう(食料)が尽きるのを待てばいい。

食料がなくなれば餓死するのだから、一刻も早く軍を退き、帰還するしかない。

相手の体力が減るのを待つように、あるいは時間制限を待つように、ただじっとしているだけで勝てる可能性が高い。


だがこの安全かつ楽な作戦は、袁紹の思い付きによってご破算になるだろう。

おとりとなる青州兵せいしゅうへいが前面に出れば、敵は警戒して動き出し、やがて戦闘になるのは必至である。

そして袁紹の目指すべき戦い、正々堂々とぶつかる戦争になるのだろう。


無駄な正々堂々で無駄な死屍累々となるかもしれん。奇々怪々で笑えない話だ。

せめてもの抵抗で、セコイ、ショボい、奸雄かんゆうだのと悪口を言われようと、私のやり方でやれる所までやってみよう……。


そう思い詰めたのが呼び水になったのか、袁紹たちが囮の青州兵を連れてやってきた。


墨染の軍服を着た兵士たちは鷹のモモ肉、虎の干肉、バッタの串刺しなどを持ち、さらに隙を見せた仲間の食料まで奪おうと、野良猫のように噛みつきあっている者もいる。


「こやつらの食い意地はひど過ぎる!食事を止めようとすると私たちに襲い掛かってきたのだ。まるで、猛獣、いや、黄巾賊そのものではないかっ!

調教師、いや、見張り兵がいなかったら、私たちと殺し合いが始まる所だったぞ。

もっとちゃんと、しつけをせんかっ」


喧しい将軍は眼中になく、その背後にいる自分の兵士たちを注視する。

……どうやら隊の編成を越えてまで、経験の浅そうな、若い者を選んできたらしい。


一瞬、険しく目を細めたが、すぐに視線をそらした。

荀彧じゅんいくも無表情を装っているが、その肌の下では血が煮えるような怒りを感じていた。


……まるで使い捨ての道具扱いじゃないか。この男、私たちが青州兵を作り出すまでに、どれほど命と労力を投じたか、そして、彼らがどれほど訓練を頑張ってきたか、一厘いちりん(約0.3ミリ)だって考える事はないのだろうな。


だが、すぐにその怒りの方向は変わる。


……袁紹はたしかに強引だ。だが、それを止められず、青洲兵を守りきれないのは、私たちが弱いからでもあるんだ。


そして心の中で、もう一人の自分が戒めるように囁く。

……だから強くなるしかない。悔しい思いをしたくなければ、誰よりも……。


「さあ、戦争の時間だぞっ。早く準備をしろっ」

まるで魔王然とした袁紹は馬上から四方を見下げて命令した。


うららかな昼食は唐突に終わり、同時に、不穏な戦闘配置の合図が出された。

迅速に陣形が形成されていく。

囮の青州兵を弩弓隊の前面に出ると、その決死の突撃攻撃を予感させる配置に陶謙軍は声を上げてざわめき、そして戦場の空気はガラリと変わった。


陶謙軍は防御用の鉄の盾を並べ始め、その奥には、歩兵を突き刺すための長槍の刃が水面のように幾つも光りだす。

重く暗い戦いの気配が、悪質な死霊の如く漂い始めている。


荀彧は沈むような息苦しさを我慢しながら、並んで前を征く二名の牧の背中を見つめ続けた。やがて二人は指揮官は定位置につく。


見渡す限りの大地には、数万人がいるというのに不思議と物音がしない。

馬でさえ場を察するのか、いななき一つ発しない。

軍旗がはためく勇ましい音だけが、虚ろに啼いている。


「全軍、戦闘準備」

少女が独り言のように小さくつぶやくと、伝達兵が大声で復唱し、静寂を破った。

旗と金鼓でも同時に合図が送られ、各軍勢は武器を装備し終わると準備完了の信号を返す。それを伝達兵たちが口々に読み上げ、指揮官に伝え続けていく。

準備完了遅れの処罰を恐れ、すべては迅速に動作する。

そのため号令とほぼ同時に全軍攻撃可能となるのだ。


……人員が少ないからだろうが、命令に対する反応が、とてつもなく速い。

袁紹は思わず驚きで鳥肌が立ったがおくびにも出さず、指示した。


「よしっ、青州兵は前進全速だ!号令を出すのだ」

「はいっ」

少女は即答すると片手を振り上げ、何のためらいもなく命令を発した。


「全弩弓遠距離を狙うと同時に、撃てっ!」


復唱の必要がないほどの大声の号令だった。即座に信号が送られ、弓隊は弦を引き絞る。そして幾千の矢が空の一部を黒く染める。

それを迎撃するため、陶謙軍からも矢が放たれた。

刹那のうちに不吉な暗雲は衝突すると、両陣営の間に潰れ合った矢の残骸が豪雨のごとく降下する。


突然降りだしたひしゃげた矢の雨に青州兵たちはぴゃっと悲鳴を上げると、躊躇なく野良猫のように自軍へするんと逃げ込んでしまった。


なんという逃げ足の速さ……。

兵士としてはあまりよろしくないが、人として当然の行動を取ってくれた事に、荀彧はホッと小さく息を吐いて、ひそかに笑みさえ浮かべた。

……よかった。とりあえず、無駄死にせずに済んだ……。


「おいっ!なんだこれはっ」

その怒号に、ハッとして青年は顔を上げた。

自分の思惑通りにならなかった袁紹が、まるで幼い少年のように癇癪を起し、少女に平手を大きく振りかぶっている。


つづく

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