第100話 兗州・袁紹襲来
歓迎どころか挨拶もなく、まるで下着の履き忘れに気づいた如く茫然自失して立ち尽くしているだけの少女に、
「はっ!申し訳ありませんっ」
少女は真顔に戻ると、もはや反射的に謝罪していた。
「まさか
あわてて壮年の将軍に拱手し一礼をすると、周囲の者も一斉に頭を下げた。
彼と初めて会った数人は目を見張り、緊張に身をこわばらせる。
その恐縮した様子に、袁紹はやっと満足したのか再び表情を明るくすると少女の華奢な肩を馴れ馴れしく無意味に抱いた。
「いやあ、いつ死んでしまうかと心配していたが、元気そうで何よりだよ。
私の所に居候してた痩せ猫が、今は
それに野良狼は
横目でちらりと
「お久しぶりです袁冀州牧。今回もよろしくお願いいたします」
青年は初めて会った時と同じく、爽やかな笑顔で礼儀正しく一礼した。
相変わらずやたら余裕ある態度が気に障り一瞥だけを返す。
「ところで諸君は軍議をしていたとか。ぜひ聞かせていただこう」
「はっ」
少女は返事通りにハッとすると、地図を取り出してやけに顔の近い相手に説明をする。
「私とあなたは遠く離れて、別々の場所を攻めるという作戦を考えておりました。
私はここ、
袁紹殿には、申し訳ありませんがまた
それぞれ倒したあとは、私は北上、あなたは南下し、中心にいる劉備を倒しましょう。どうでしょうか?」
「ふむ、合理的だな。採用しよう」
そのとたん少女は弾けるような笑顔を浮かべ、相手を見上げた。
「ありがとうございますっ。では、あなたはとっとと、いや、速やかに移動してくださいっ」
そして相手から離れようともがいたが、その指には鷲の爪でも憑依しているのかと思うほど肩をしっかり掴まれて逃げられない。
「おい、
一際良く通る声で幕舎の外に呼びかけると、
鉄を纏った鬼神のごとく、見上げるような鎧の武人が二名、拱手する。
「はっ。我々が早速、平原へ向かい単経を討伐してまいります」
そういうと、鉄の塊が重々しいと音と共に去り、幔幕が閉じる。
一瞬の出来事に袁紹以外ポカーンとしていたが、少女は勢いよく彼を見上げた。
「えぇっ?!あなたは一緒に行かないのですかっ?
それに冀州で反乱を起こされて本拠地も危険だったはずでしょう?
こんな所で現実逃避してる場合ではないのでは?」
「ははっ、その情報はちょっと遅いな。
うちは有能な軍師や将軍集まっているから、一日で状況はガラリと変わるのだ。
もっとしっかり情報収集をしたまえ」
「えっ。……はい」
悔しいがその指摘はごもっともだった。
……たしかにうちの間者や使者は足りていないのだ。
急に手に入れた広大な管轄地、兗州を見張るために配置して、さらに他の州にも送り込んでいる。
さらに緊急時に回せる手練れは、数えるほどしかいない。
人材確保と育成が、追い付いていないのである。
……というか袁紹も組んでる間だけでも、状況を知らせてくれればいいのに。
「反乱は鎮圧の目ぼしは、もうついた」
ややしょぼくれた相手に反比例して、壮年の将軍は楽し気に話しはじめた。
「今回は思いがけない人物も手伝ってくれたのだ。
「
唐突な質問だったが、少女は気後れなく答える。
「世界を救った英雄、といえる人物ですよね」
「うむ、私も、あの時は感心したものだった。
しかし噂によると彼は董卓の女官と三角関係に陥り、それがバレると困るので殺したらしい。それが本当なら、痴情のもつれが世界を救った事になる。
まるで、蝶が羽ばたけば嵐になるを地で行くような話ではないか。
この世界は何がきっかけでガラリと変わるかわかりゃしないね。
ま、あくまでウワサだがな」
「へえ。よくある話が壮大になったものですね。
そのうち尾ひれ羽ひれがついて、美しい悲恋物語に進化しそうなウワサです」
「ははっ、でも、この話はどうでもいいんだ」
「え。はあ、それで?」
「その都落ちした呂布が手勢を連れて、私を頼ってきたのだ。
しばらく世話してやっていたのだが、試しに戦わせてみたら強いのなんのって。
あっという間に反乱軍も山賊も蹴散らしてくれた。
だが逆に、裏切り癖のある猛将がそばにいるのが恐ろしくなってね。
用済みだし、とっとと追い出したよ。
強いからといって配下にして、私の奥さんたちが寝取られたり、それを隠蔽するために私が殺されても困るからな」
「へえ。でも、あなたの問題は反乱と山賊だけではないでしょう?
朝廷に正式に任命された
問われてにんまりと微笑み、顔を寄せた。
「殺したよ」
その囁きに少女はギクリとして反射的に身を引くと、相手は一層、満面の笑顔を返してくる。
「昨日、私が処刑してやったのだ。おや、化け物でも見るような目をしおって」
男は笑顔のままだが、瞳の奥は鋭く光っている。
そして両肩を掴まれ、真正面から迫られる。
「まるで、自分は朝廷に反してない、とでもいうような顔をしてるじゃないか。
お前だって正式の牧を追い返しただろうっ。程度が違うだなんて詭弁だぞ。
私たちは今や、同類なんだ。今ここで、お前はそれをしっかり理解したまえよ」
話すうちに感情を装い隠すような表情はすべて消え失せ、露骨な真剣だけが残り口を閉じる。
「……わかりました」
少女が答えたのは、その一言だけだった。
屈したような相手に男は笑顔に戻ると、ずっと掴んでいた肩を離し、軽く突き飛ばした。
「ま、キミは、私の事を的外れに心配するより、自分の心配をするべきだぞ。
キミにはこんな所で死んでもらっては困るんだ。
これからの相手は、山賊や
そう言われて、少し頬が赤くなる。
そして脳裏に、董卓配下の徐栄将軍に壊滅させられた思い出がよぎる。
軍隊と戦えるのかと心配していたのは、自分だけではなかったのだ。
それに、自分が袁紹に死んでもらっては困ると思っているのと同じく、彼もこちらに対してそう思っているのだ……。
……そう、私たちはこの世界で、数少ない味方同士なんだ。
「わかりました。あなたのお気遣い、私には身に余る光栄です」
観念したように小さく呟く。
「ただ私の軍は、私が指揮をしますよ……」
ささやかな抵抗でもないが、ねじ込むように付け加える。
「ふむ。お前の軍をうちに組み込んでもついてこれないだろうからそれでいい。
できるかぎり、共に戦おうではないか」
つづく
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