第95話 兗州・父老

「初めまして、青洲黄巾せいしゅうこうきん父老ふろうさま。

あなたとお話できる日をどれほど待ち望んでいたか。

私は兗州牧えんしゅうぼくを勤めております曹孟徳そうもうとくと申します」


少女は踊り子姿のまま、拱手一礼した。

対する小柄な老人も、丁寧に一礼を返す。


音楽会が終了したのは、楽しい一日が淡く消えゆく黄昏時であった。

古城の一室はすでに灯火が点けられ、小さな火鉢も暖かい。


二人は床几に座ると、少女の背後には荀彧じゅんいくが立ち、父老の背後には同じ顔をした若者が左右に立っていた。


「あなた方がどうやって私を探すのかと思いましたが、なんだかよくわからないうちにおびき出されておりました。

……歳を取ってもつい熱狂してしまうなんて困った話です。


我らは、どちらかというと兗州えんしゅうを去ろうと思っていたのですよ。

ここは居心地が良すぎて、なんだか逆に心苦しくなってきましてね。

よくわからないが、ただ、逃げ出そうかと思ったのです」


小柄な老人は、愉快なひと時を思い出して頬を緩ませたり、瞳に大きな迷いを滲ませたり、複雑な心をそのまま現わしながら呟く。


「それにしても、まさか兗州牧えんしゅうぼく(牧は知事のような立場)ご自身が、歌い踊っているとは思いもよりませんでした。


この世は苦しみが多いから、皆で良い時間を過ごせたのは幸いな事です。

これに関しては、心の底から感謝をいたします」


「私たちも、良い気晴らしになりました。

私たちはともに、殺し合いをしてばかりでしたからね……」


そう言う少女の声は、最後にはかすれて小さく消えた。

鮑信ほうしんの事を思い出したのだ、と、荀彧じゅんいくは主人の小さな後ろ姿を見ながら思う。


「そうですな……。

私も最初のうちは、前の兗州牧えんしゅうぼくのようにあなたを殺し、できるだけここに居座ろうかと思っておりました。


しかしあなたは他の者とは違い、我らを殺さず、保護しようとする……。

私も最後には、あなたが気になりましてね。

柄にもない事ですが、書簡を送ってみたりしました。


ただ、あなたはどうも計り知れないお方でして。

予防線として、簡単には会う事はしなかったのです。


……なにしろ我らは食い詰め者の集まりで、生きるために人を殺して奪う事を日常としております……。


そのような、もはや人ではなく、獣のような私たちを受け入れようとは、今でも、にわかには信じられない話なのです。


失礼ですが、正直に言います。

今でも、これは私を殺し、我らを完全に殲滅するための大きな罠かと……。

実は警戒しておるのです。


馬鹿な我らは、また、騙されたのではないかと……」


老人は口元は笑っているが、目は冷たい光を湛え深く探るように話す。

先ほどまでの柔和は消え、痛いほどの緊張感を漂わせている。


少女は聞き終わると、ふっと、笑った。


「あなたは私の経歴をよくお調べになっているのでご存じだと思いますが、私は、始めての戦った相手は黄巾賊でした。

あの時から、元は農民だったあなた達の事は気になっていたのです。

とくに、討伐以外に、あなた達と対する方法はないものかと……」


老人は黙っているので、少女は続けた。


「それと大きな声では言えませんが。

私はあなたたちの不満がわからないでもない、そんな気もするのです。


あなた方は外側から、私は内側から、方向性は違いましたが、しかし多くの人のためを思って抵抗し、失敗した者同士だったのかもしれません。


まあ、あなた達は私とは比べものにならないほど過激で、今でも心折れずに、頑張っていらっしゃいますけどね」


少女は笑顔のまま、かなりきわどい発言をサラリと話した。

父老は皮肉なのか寂し気なのか、よくわからない苦笑を浮かべ、視線を落とした。

火鉢の中で爆ぜる乾いた音が、時々響く。


長い沈黙のあと、父老はゆっくりと言った。


「私は、あなたを信じようと思います。

条件を飲んでいただけるなら、あなたに降伏いたします」



少女は思わず固く目蓋を閉じて、深く息を吸い込んだ。

……いや、まだだ。まだ終わっていない……。


ぱっと瞳を開くと「条件とは?」と問うた。

父老はまっすぐに少女を見つめ、口を開いた。


「一つは、我々の信仰の自由を認めていただきたい。

最初、私たちは太平道を信じ、助け合い、ここまで来ました。

その信仰を認めてほしいのです。


もう一つは、我らはあなた直属、あなただけのものにしていただきたいのです。

それは、軍隊であってもです。


私たちは、あなたにだけ屈したのです。

あなた以外の支配を、絶対に受けるつもりはありません。


なので、あなたが死亡すれば、あなたの世継ぎには絶対に仕えません。

あなたが亡くなったあと、我らは自由となる保障していただきたい」


少女が何も答えないので、父老は声をかけた。

「いかがですか?曹兗州牧そうえんしゅうぼく


「……たった、それだけ、なのか……」


少女は放心したような表情で、小さくつぶやいた。

そして口を開く。


「信仰は、自由にするがいい。

ただそれが私たちに害をなすなら、法の下で罰するし場合によっては討伐もする。


そしてあなた達は、私が死ぬまで直属とする。ここに誓おう。私の特別の存在だ。

もしも私が死んだら即座に、残るも去るも、あなた方の好きにすればいい」


 荀彧じゅんいくが簡易の机と筆記用具を用意すると、少女はそのすべてを竹簡に書き記し、兗州牧の印を押した。

そして、立ち上がると、父老にそれを渡す。


父老はそれに短く目を通すと、自身も立ち上がり、二人は見合った。


「交渉成立、ですな。今後ともよろしくお願いいたします」


父老は改めて拱手すると、深く頭を下げる。

少女もそれに習った。

「こちらこそ、よろしく頼みます」

二人は心を分かち合ったような、すっきりとした笑顔を浮かべた。


「ところで、気の早い話ですが」と、父老が続ける。


「実は、近々こうなるのではと思い、ひそかに皆に呼びかけていたのです。


それで、私と共に降るのは、兵士は約三十万人、非戦闘員は、約百万人の予定です。

我らと離れる者は、また自由に生きるようです」


その言葉に驚き、契約内容を保存用の竹簡に記していた荀彧じゅんいくは筆を落としかけた。


……三十万人の兵士が降伏!?


つづく

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