第94話 兗州・傾国の踊り子、の幽霊

 「古城に女楽師の幽霊が出る」


今や、敵も味方も関係なく、その話題で持ち切りである。

しかもその幽霊は必ず誰もが見る事ができるという難易度の低さだった。


朽ち果てた城の城壁の上、月の下で響く琴や笛に合わせ、幽霊は歌い踊る。

幽霊単品でも珍しいのに、そこに貴族や金持ちが楽しむような本格歌舞まで無料で付いてくるのだから、あっという間に見物人は増加した。


ただ一つ、いや、二つ願いが叶うならと、いつしかお得な幽玄の時間の常連たちは、それ以上の満足を求め始めている。人の欲望は果てしないので仕方ないのだ。


ひとつ。

まるで、練習でもしているように、突然、演奏がピタリと止まり、その後、しつこく、同じ旋律を繰り返すのをやめてほしい。当然だが興そがれる事この上ない。


ふたつ。

幽霊たちを陽の光の下、その姿をハッキリと見たい。

不思議なもので、見えそうで見えない部分だとか、隠している部分だとか、やたらにしっかりと見たくなるものである。

今は影絵のような彼らだが、一体、どのような容姿の亡霊なのか……。

けっして、踊り子の幽霊が可愛いかどうかを気にしているわけではないのだ。


こんなふうに、昼は殺伐と殺し合いをしている兵士たちは、夜は素知らぬ顔で共に亡霊たちの音楽を楽しむという、奇妙な日々を過ごすようになっていた。

 


「楽器と、演奏者の補給……?」

早馬からその伝言を聞いた東郡太守とうぐんたいしゅ夏侯惇元譲かこうとんげんじょうは、首を斜めに傾げた。


……何が起こっているんだ?

そう思いながらありったけの楽器を持ち出し、自身も竜笛の心得があり、久しぶりにわが君に会えるという事もあったで、奏者と護衛と共に指定の場所へおもむく。



「おや、お久しぶりです、夏侯太守かこうたいしゅ。竜笛の心得、ですか。

私たちは戦いも音楽も全力で頑張っております。なにより演奏会が迫っています!

我らの演奏技術に追いつくように、自主練習しておいてください」


戦場から帰ってきた楽進は、まだ泥のついた手に太鼓を持ってそう語ると早々に幕舎へ消えた。そして強弱をつけた表現力豊かな打音が響いてくる。


……音楽?演奏会?自主練習?……だから、なにが起こっているんだ?


そのうち陣中は帰還する部隊や兵士たちで騒然となった。

禍々しい殺気を感じて視線を向けると、縄でしばられた大勢の黄巾賊たちが厳重に包囲されて水飲み場の小川へ連れていかれている途中である。

油断した兵士が噛みつかれていた。


あ然としていると、名を呼ばれて振り返った。

軍服の少女が立っており、二人はまた無事に会えて嬉しいという笑顔で拱手一礼を交わす。


青年が疑問を尋ねようとした瞬間、喧噪に負けぬ華やかな声がそれを遮る。

「お待ちしておりましたぁ!」

城にいるはずのお針子女官三人組が、仲良く木箱を持ち合いやってきた。


「新しい舞台衣装ができましたーっ。試着してくださいませ!」


……えっここですか?!

と、青年の方が焦っていると、お針子の一人が大きな布で軍服の少女をサッと隠した。

……大道芸人が幻術を披露する時にやるアレだな。

そう思っている間に布が払われる。本当に、大道芸でも通用する早着替えだ。


現れた姿は、淡い薄絹を繊細に重ね着し、花びらのような裾の奥には足元がうっすら透けている。小さな麗人の両手には、抜き身の剣が光っていた。


「おや、ひょっとして虞美人ぐびじんの仮装ですか?」

「おっ、わかってくれたかね」


そういうと、剣をびゅんと勢いよく回転させ、二本同時に空中に放り投げて後ろ手に掴んだりしながら軽く踊り、切ない乙女の表情で古典の名曲である項羽こううとの悲恋歌の一節を口ずさむ。


四人は「こんな異常に剣慣れした虞美人がおるか」と思いながらも、見事な芸に拍手した。


……やたら上手いな。奥さんの一人が踊り子だから、きっと日頃から習ってたんだな。


他にも白虎の毛皮をまるっと被るような装いや、上半身は屈強な鎧だが、腰から下は申し訳程度の短い布を腰に巻いただけの、いさなまめかしい女傑姿もあった。


いずれも奇抜で新しくて可愛らしく、しかも胸元やら、足の付け根やら、見えそうで見えず、目が離せない。

斬新な意匠と、巧妙に計算された縫製に、青年は唸った。

……このお針子たち、只者ではないな。


そして、ハッとする。

……だから一体、何が起こっているんだって?!


冬の訪れを呼ぶ木枯らしに、腰に巻いた短い布をはためかせて少女が答えた。


数日後の音楽会には大勢の客が集まるので、そこに探している黄巾賊の長、父老ふろうも現れるはずだ、との事。


……だけど、黄巾賊はまだ何百万人いるんだろう?

そこからどうやって、一人だけを探し出すというんだ?


そして、来たる音楽会の日。

いつもは夜に現れる幽霊たちが朝から歌舞を披露しているというので、見る間に人が集まり推定二、三百万人の超大観衆を動員、地の果てまでもが覆い隠された。


……こりゃあ、まいったな。もしも彼らに襲われたらどうするんだろう?


不安しかない夏侯太守の質問に、少女は、地下に逃げ道を作ってあり、背後の城を盾にして逃げられると答えた。とはいえ、心配だ。


だが観衆は曲が始まると静かに聴き入り、それが終わると大熱狂の声を上げて好意的である。

そのうち、踊り子の亡霊に手を振ってもらおうとしたり、注目されるために服を脱いでみたり、観客たちの中からやたら必死すぎる者たちが現れ始めた。


この微笑ましい様子に、心配は杞憂に終わりそうだと青年も感じ、いつしか演奏に集中していた。

……だけど、これで父老をどうやって見つけようというんだろう?


青年は楽譜から目を上げて、ちらりと観衆を見た。

すると「父老です。踊り子ちゃんこっち見て」と即席で書いた布を持った人物を最前列に見つけ、青年は笛を吹きながら「あっ」と声を上げた。


つづく

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