第92話 兗州・涙

夜を徹して黄巾賊と戦った。捕らえるというような心の余裕は皆無だった。

空が白む頃に、やっと残してしまった味方兵士を数十名、救えたとわかった。


だがそこに鮑信ほうしんの姿はない。


味方はもちろん、地面でうめく敵にも彼の行方を尋ねたが、知る者はいなかった。

どこかで倒れているのではと屍までも確認したがいなかった。

やがて真昼の日差しになる頃、死屍累々の真ん中でぼうっとしている自分に気が付いた。


 次の日、味方はもちろん敵にも、礼の金品を渡すと伝え鮑信ほうしんの姿を探し求めた。

黄巾賊こうきんぞくに捕らえらていれば、金か食べ物と引き換えに戻ってくるのではと一縷いちるの望みを持ったが、それもなかった。

数日経ち、この世界では鮑信ほうしんに会う事はできないのかもしれないと思い始めた。


……恩人を亡くすのは、彼で二人目だ。……いや、殺したのは、だ。


責めてくる自分の心を放置して、このまま憂鬱に閉じこもりたい気分だった。

だが……。

……主人を失った鮑信軍は、もっと深刻な時間を過ごしているのだろう……。



少女は身綺麗にすると武装して、最も見栄えの良い刺繍の入った袖なし外套を羽織った。

指先が尖った鬼の手の籠手こてをはめ、腕と太ももには皮製の鞘に入った小刀を幾つか装備している。

左右に佩いだ剣の鞘は良く磨いたらしく、いつもよりも多く残光を輝かせた。


戦場では護衛兵に囲まれて、武装姿の指揮官を間近に見る機会は意外と少ない。

兵士たちは珍しそうに目で追い、そのうち話しかける者が現れた。

やがて好奇心の人集ひとだかりができ、多くの言葉が交わされた。


鮑信の話題もあったし、彼らがいつも気にする所である給与や賞罰の話もあった。

戦場での働きを上司が横取りする事はなく、新兵でも評価し、褒賞を出すと念を押した。

罰については、禁止事項を行う者と班全体の責任となるので、よく規律を守り、皆で協力して過ごすようにと伝える。

皆、期待や想像が先走りするのか、やけに笑顔で聞いていた。

少しだけ、明るい空気が戻ってきた気がした。


 それから、鮑信ほうしん軍の陣営を訪れた。

鮑信が行方不明になった日、見舞いに訪れた時以来である。

彼らはその時、主に似せた人形を木彫りして、少しでも早く帰ってくるようにと祈っていた。

……だが今は、その人形で弔っている……。


即席で作られた祭壇には人形が溢れんばかりに置かれていた。

少女は膝と頭を地面につけて、ただ深く祈った。


その後、鮑信の兵士たちを前に、明日にもこの人形たちを前に哭礼こくれいを行いたいと伝えた。

そして、行先に迷う者がいれば、私たちの助けになっていただけるとありがたい、と深く一礼して、彼らの陣地を後にしたのであった。


すると、その日の夜には、于禁うきんあざなは文則ぶんそくという人物が代表で訪れた。

いくつかの部隊を配下にしてほしいと、所属と氏名を書いた名簿を手渡してきたので、その手際の良さと几帳面さに、荀彧じゅんいくも驚いたほどであった。

当然、喜んで彼らを受け入れた。


 翌日、哭礼こくれいが行われた。

悲しみと感謝の気持ちと祈りを、泣き声で伝える葬式である。

鮑信の魂と、彼の代わりである人形たちに、兵士たちは慟哭どうこくを捧げた。

真心からの嘆きは延々と、天に届かんばかりに泣き響いた。


 この間にも青洲黄巾賊との衝突は続いていたが、しかし、その規模と回数の減少は顕著になってきている。


……まさか、青洲黄巾賊せいしゅうこうきんぞくはここを去ろうとしているのか?


 なにか、今までとは違う気配が漂い始めたある日。

厳重に封された一通の竹簡が、少女に届けられた。

だがそれを読むうちに、目じりは朱く染まり、唇は固く嚙まれて歪み始める。


つづく

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