第91話 兗州・鮑信
彼らの人数は少なく、深くなってきた闇も味方した。
だがそのうちに、馬上の鮑信が悲痛に叫んだ。
「歩兵たちが、遅れています。
ですが我々まで速度を落とせば追いつかれ、全滅してしまう。
ここは私が食い止めます!あなたは急いで援軍を呼んできてくださいっ」
「はっ?」
少女は自分の身体から血の気が引くのを感じた。
そして衝動的反射で答える。
「いやですっ!あなたを置いて逃げるわけにはいきませんよっ。
援軍は、斥候に呼びに行かせればいい。あなたが残るなら、私も残りますっ!」
珍しく酷く感情的な様子に、鮑信は一瞬、気後れしたが、彼もやや語気を強く答えた。
「それはだめですっ。
あなたに万が一の事があれば、私は後悔で頭がおかしくなってしまいます。
私は、あなたは乱れた世を治すために、天から導かれた人だと信じています。
これからも多くの人を救う為に、あなたはこんな所で死んではいけませんよ」
「わっ私はっ」
少女は唐突な信心的告白に、ややムッとして答えた。
「ただの弱い人間ですよっ。自分の事は、自分が一番、わかっています。
あなたを始め、多くの人の助けがなければ、私は戦えないのですっ!
だから私こそ、あなたがに万が一があると困るのですよ。
それに友人であるあなたをここに残す事なんて、できないのですっ」
鮑信は並走している少女を見つめ、微笑んだ。
「友人とは、嬉しい事をおっしゃってくれましたねっ。
私も、これからもずっとあなたと一緒にいたいと思っていますよ。
だからどうか、お願いします。
私だって死ぬために、ここに残るつもりではありません。
私のために、あなたに援軍を呼んできてほしいだけなのです」
以前の自分なら、運を天に任せ、残った気がする。
だが、今は違った。
このような時は、味方を犠牲にして、一人になっても逃げて、生き残らなければならないと、言い聞かされている……。
……そんな価値が本当に自分にあるのか、今もわからないが。
鮑信が滲んだ。
自分が泣いている事に気が付く。
「約束ですよ。絶対に、死んでは嫌ですっ。すぐに戻りますから、必ず、待っていて下さいっ」
そう叫び、影も残さぬ脚の速さから絶影と名付けられた名馬を疾走させた。
空には、星がいくつも美しく瞬き始めていた。
本陣に駆け戻った少女は、そのまま将校の営舎前で進み、転げるように下馬した。
ひざに力が入らないのか、地面に腕をつき、肩で息をする。
「一体、どうしたのです?!」
どうやら絶影は斥候さえ追い越して走りぬいたらしい。
兵士たちや将校も何事かと、地面に突っ伏した少女に駆け寄ってくる。
「し、
少女はのどが枯れて、絞り出すような声で呼びかける。
「
頼む、お願いだよ。早く助けに戻らないと……」
曹洪はハッとしたが、すぐに気を取り直し、出撃準備の指示を出した。
……
そう察したとたん、息が詰まった。
……自分は運良く生き残ったが、彼は、どうだろうか……。
少女に水を差しだしたが、やはり顔を上げない。
その理由が、曹洪にはわかる気がした。
それも
ここにいる誰もが、彼に強い恩を感じている。
それに彼は、鋭い炯眼の持ち主でもあった。
彼は、どの道が正義なのか判断できる勇気と叡智を持ち、そして命を懸けて進む事ができる、たぐい稀な人なのだ。
……その、将来の英傑となるような人物を、自分が生き残るために犠牲にしたかもしれないと思っているのだろう。
曹洪も思わず涙ぐみそうになったが、いや、まだ早いぞ、と強く思い直す。
そしてキョロキョロして、一人の人物を見つけると、わざとらしく言った。
「
メソメソ泣くのは早いのだっ」
「えぇっ?!」
妙才と呼ばれた青年は思いもよらず注意されて、目をパチクリとさせた。
同時に少女はギクっと、大きく肩を揺らす。
そそくさと急いで袖で顔を拭うと、やっと顔を上げて水を一杯飲んだ。
「そ、その通りじゃっ。泣いてる場合じゃないっ。早く助けに行かねばっ」
まだ整わない息でそう言うと立ち上がり、桶で水を飲んでいた絶影の手綱を強く掴んだ。
つづく
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