第90話 兗州・作戦の修正

 鰯雲いわしぐもが浮かぶ秋の頃になっても、青洲黄巾賊せいしゅうこうきんぞく兗州えんしゅうにいた。

どうやら、彼らは気づいたのだ。

ここではこっぴどく酷い目には合わされないらしい、と。


だが穏やかに住み着くわけでもない。

通りすがりの動植物はもちろん、河では魚を獲り尽くす。

隙を見せれば町や村から食物を強奪しようとする。

非生産的かつ危険な存在なのは変わりなかった。


戦いは、相変わらず兗州軍が主導権を握っていた。

彼らの学習能力の無さは、指揮官不在も大きな一因だろう。

人間でいうならば、考える頭が無いのも同じなのだ。

だがこの欠点のおかげで彼らを安易に罠にかけて捕える事ができ、死傷者を抑えられている。


捕虜となり説得され、移住を開始した者は約五万人にも達した。

元兵士たちが書簡を出して家族を呼び寄せたり、黄巾賊に化けた間者たちが噂を広め続けたおかげもある。

本来なら、大きな人数だし、すでに村もいくつかできている。

だが彼らは元々、約二、三百万人もの超大群であり、それを考えると、まだまだ微々たる人数だった。


……このままでは、終わりが見えない……。


 地図や竹簡、筆記用具が乱雑に広がる机に、少女はため息と頬杖をついた。

踊り子の衣装は晴れやかだが、それを着る人物の表情は曇っている。


なぜに戦場で、この場違い過ぎる服を着ているのか?


それは捕虜と話す際に「軍服ではいかついかな?」と思ってしまったのが原因である。結果、相手が一番興味を持つのが、この衣装だった。


美しい花か鳥でも見つけたようにうっとりとする者、賊となる前の人らしい思い出がよみがえり目を細める者。皆、毒気を抜かれたように大人しくなる。

……けっして、胸元や太ももをチラつかせて一時的にでも怒りを静めるというあざとい作戦ではない。


今は彼らとの交渉が終わって、幕舎でうな垂れている少女である。


「作戦を、すこし変えようと思うのだが……」

疲労に染まった声でつぶやく。


荀彧じゅんいくは、床几しょうぎに腰かけた主に冷えた白湯を出した。

彼の白く滑らかだった肌は陽に焼けて少し乾いていたが、それも精悍な美しさとなっていた。

戦場にも司馬しばとして参戦をしているので、逞しさも備えつつある。

彼はしばし考えるように無言だったが、口を開く。


「……もしかして、父老ふろう、ですか?

彼と直接交渉をしようと?」


父老ふろうとは、どこの村にもいるまとめ役をする人物の事である。

村長に似た存在だ。


少女は、出された白湯をすすりながら、目を見開いた。

……攻撃するのか、と問わない所がさすがだ。

「君は、鋭いね。戦わずして勝つのが、兵法において最高の策だ。

それをわかっている人が軍隊にいるのは、助かる」

「光栄なお言葉です」

向かいに座った青年は仰々しく拱手一礼する。


父老ふろうは、確かに存在しているようです。

しかし間者たちが探っても、いまだに詳細も所在も不明です。


もしかしたら意図的に隠しているのではなく、彼を知る者が極端に少ないのかもしれません」


「その推測が正しければ、父老ふろうはとても聡明な人物だ。

隠したい事は、知る者が少ないほどいい。理にかなった事をしている」


「言われてみれば、当然ですね。だが、それを長く続けるのは相当難しい事です。

もしも、これを意図的に実践しているのなら……」


しばし美軍人と踊り子は無言で見つめ合った。

場所が幕舎でなければ、なかなか甘ったるい絵面だった。


……彼らの核心部は、理知的という事だ。

外側の、獣のような兵士たちとは真逆の性質なのか。


そこそこ長い付き合いのはずの青洲黄巾賊せいしゅうこうきんぞくが、突然、深い謎に霞んだ気がした。


「なんだか、まぼろしの珍獣探しでも始める気分になってきた」

わくわくする言葉を、どんよりした顔でつぶやく。疲れているのだ。


「だが、そのまぼろしの代表者を見つけて話し合いができれば、この不毛な戦いはすぐにでも終わるかもしれないのだ。

今は藁にも縋る思いで、その新しい可能性に期待するしかない。

これからは、この代表者を探そう」


 しかし、この父老ふろう探しは難航した。

黄巾賊の進路へ立札をいくつか立ててみたり、文字を書ける者が集まり父老ふろうあてに話し合いへの誘いの書簡を書き、捕虜の家族あてのものと一緒に送り込んでみたりした。

だが、どちらにも反応は皆無だった。



 冬も近づくある日。

青洲黄巾賊は大移動して、林の中に潜んだ。本来なら、絶好の火計処である。

たが今回は攻め立てたいわけではないので、それはしない。


 彼らを追って、自軍も陣地を変える。


そして戦場にするに都合良い場所を見つけるために、少女と鮑信ほうしんは約千人の騎兵と歩兵を伴い出かけた。


指揮官が現場確認するのは、当たり前かつ、非常に重要な仕事である。

これをしなければ、机上の空論や、兵法の定石だけを頼りに戦う事になりやすく、大変危険だ。

さらに現場の兵士と、現場を知らない指揮者との間に認識の乖離が生じ、不満や軋轢が出て自滅の原因にもなりかねない。


もっとも現場を見たからといって、誰もが良い指揮ができたり、陣を敷くことができるとは限らないのではあるが。


 周囲に斥候と兵士を放ち、詳細な地図を作り上げていく。

伏兵や罠を配置できる場所の発見しては移動して見分し、書き込んでいく。


早朝から始めた作業だったが、いつしか空は朱く染まり、鳥は並んで森へ帰り始めていた。


自分たちも今日は仕事を終え、帰路につこうとした、その時だった。


 森の中から突然、矢を射られた。

数名の兵士と、馬が数頭、悲痛な声を上げて倒れる。


斥候が敵に気づかなかったのは、彼らが極少数で行動していて遭遇しなかったのか、ただの狩人に見えたのか。

黄巾賊の武器としては珍しい弓矢も、本来は動物を射るための装備かもしれない。


 すぐにこちらも矢で応戦し、相手は完全に沈黙した。

だが攻撃したという事は、仲間の到着が間近か、すでにしているのだろう、と少女は視線を鋭くする。


「鮑信殿、早く逃げましょう。もう囲まれているかもしれません……」


相手が頷く間に、後方の歩兵部隊の数人が、木々の間から溢れたように現れた賊に飲み込まれた。


「まずいっ」


青洲黄巾賊の足の速さと猛攻は皆よく知っている。

武器や四肢を破壊されても、噛みついて最期まで抵抗する者もいる。

獲物を見つけ猛獣と化した一心不乱の彼らは、恐怖そのものだった。


つづく

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