第89話 兗州・勝ち負け、それ以外の答え
その陣幕は四方が解放され、夜の冷えた外気と松明の光が内部にも溢れていた。 見物の将校や兵士たちも集まり、やや騒然としている。
中には
彼らは全員、怪我の手当をされていた。
水浴びをしたのか頭髪も整い、新しい着物の者もいる。
まるで拾われたケモノが突然丸洗いされたようで、清潔がまるで馴染んでいない。
ざわつく兵士の人垣を抜けて、一人の少女が現れた。
男物と女物の混じった独特の衣装に、細腰の左右に佩いだ美しい剣が歩くたび煌めく。
場違いな人物の一挙手一投足に、思わず全員が魅入った。
清楚な横顔が振り向くと、憂いの帯びた瞳が五人の哀れな捕虜を捉える。
その瞬間、彼らは人質を見つけたとでも思ったのか、一斉に襲い掛かった。
だがその尖った指先が届く寸前に、首や身体の一部に少女の真剣が触れていた。
見張りが一拍遅れて剣の柄に手をかけたが、少女は視線で制した。
その目には緊張感はなく、苦笑いさえ浮かんでいた。
その間に、捕虜たちは逃げるように元いた場所に小さく座り込む。
少女もまた、何事もなかったように彼らと同じ
そして、なぜか泣きそうな笑みを浮かべて、口を開いた。
「私は、以前からずっと、君たちの事が気になっていたのだ。
いつか、話ができればと思っていた。
今日はこの場に来てくれて、感謝する」
その静かな言葉に、捕虜たちの鋭い眼光は変わらなかったが、怪訝に眉をひそめて流し目で見合う。
彼らの戸惑いの中で、少女は言葉をつづけた。
「結論から言うけど、君たち、私の仲間にならないかね?」
その一言に、捕虜代表たちは困惑を越えてしばしポカンとしたが、突然、火に油を注いだように猛烈に怒り出した。
「民を苦しめ続ける漢王朝の手下と、一緒に働くなど絶対にない」
「人を使い捨てて、貧しい者を増やす権力者は信用できない」
「黄巾の元となる助け合いの信仰を捨てて、誰かに頼る事はない」
などなど。
彼らはくやしそうに訴えているうちに涙を流し始めたので、少女ももらい泣きをして、小さな手ぬぐいで鼻を抑えて、いちいちうなずきながら聞いていた。
初めて戦ったのは、黄巾賊の乱だった。
あの時から今も、彼らは元は素朴な農民、国民だった事を忘れる事はなかった。
だが「蒼天(漢王室)すでに死す。黄天(太平道)立つべし」という国家転覆を唱えた瞬間、彼らは賊になり、討伐対象となってしまったのだ。
賊とはいえ、一方的に搾取されるだけの立場である彼らの怒りや、使い捨てられて追い詰められた原因を考えると、心が痛むのは当たり前だった。
彼らに対して、討伐以外の解決法はないものかと、考えに耽る日もあった。
……そして今、その解決法を試す時かもしれない……。
そして戦いに挑む時と同じように、これで何かが変わればという希望を胸に話をしている。
「漢王室に対しては、諸君らがどう思っているか全く問題はない。
私たちとは、考え方が違うというだけの話だ」
少女は長々と涙を流し鼻をすすっているので、今では捕虜たちの方が一歩引いたように落ち着いている。
「それに、信仰も自由にすればいい。
君たちが何を思おうと、何を信じようと自由だ。
君たちも私も皆、心だけはどこまでも自由なんだ。
それと、もし移住してくれるなら、諸君らと家族の暮らしだけど。
そこをなんとか耕して暮らしてほしい。
たとえば、我らが昼間に戦った土地だって、広大な空き地だったろう。
……まあ草原の
そして、
どうだろうかね?」
捕虜たちは顔を見合わせて、ひたすら無言で、何度もまばたきをする。
純粋に、ひたすら驚いていたのだ。
やんごとなき漢王室を否定したにも関わらず、怒りもせず、とがめもしない。
ましてやその考えを許容するときっぱり公言した。
何より、賊と呼ばれて、反逆者と嫌われ、憎まれ続けてきた自分たちを、受け入れたいと言う……。
……信じられない話だった……。
だが、とめない話も根気強く聞き、理解してもらおうと答え続ける姿には、いつしか、心が揺れ動いた。
しかし彼らは今まで、権力者には甘い言葉で騙されてきた過去があった。
その苦く重い思い出が何度も甦りながら、しかし、やがて疲れたように思い至る。
……もしも、こいつの言っている事が、本当だとしたら?
家族だけでも穏やかに、平和に暮らせる日がくるのだとしたら……?
「……お前を、信じていいのか?」
それはひどく小さな声で、疑わし気にだが、とうとう一人が尋ねた。
そのとたん、四人は大きく目を見開いて身を乗り出し、少女の顔を一心に見つめた。
肉の薄い乾いた頬に、どの感情が溢れたのかわからない涙が伝い落ちる。
……自分の人生はどれほど人に裏切られ、奪われてきたのだろうか。
だから自分たちが、奪う側になった。
だがもしも、もう一度……。
少女も涙で腫れて重々しいまぶたを上げて前のめりになり、五人に頷く。
「もちろん本当だ!
もしも仲間になってくれるなら、この私の話を、ぜひ他の捕虜にも伝えてもらいたいのだ。家族がいるなら、黄巾賊の巣にも書簡を送ってほしい。
そして、納得した者だけ集まって、新しい村を作って暮らしてほしいんだ。
黄巾賊を辞めた兵士たちは、今の戦いには絶対に出さないと約束する。
元の仲間を討つのは辛かろう。
それに、この戦いは君たちの力を借りずとも、私たちだけでやれる。
私が信じられない者や、不服な者は、もとの黄巾の巣へ戻ればいい。
そして、また我らと敵となり、戦場で会おう」
捕虜たちは突如、懸命な表情になり、殺到したい気持ちを抑えるように両手を
「お前の言った事は、絶対に確かなのか!
あとでお前よりエライ奴が来て、裏切られたら絶対にイヤだ!
今すぐここに、この
そして、お前が言う事がウソではない、確かな証拠を、私たちに見せてほしい!」
少女は涙をぬぐっている目元から袖を離すと、姿勢を正した。
「ああ、自己紹介を忘れていたかな。
私は
名は、
つづく
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