第88話 兗州・(できるだけ)不殺の戦い

「思ってたより、食いつきがよかったです!」

予想以上の大反響に作戦提案した荀彧じゅんいくは轟音の地響きの中で叫んだ。


「良すぎだっ!しかも動きが早い!呑まれるぞっ」

……前の兗州牧えんしゅうぼくは彼らのこういう怒涛の突撃にやられたのだろうか。

そんな事を思いながら、叫び返す。


当たり前だが、兵士約百万人、その家族を含めたら倍以上いる青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞを、一度に、全員相手になどできるわけはない。


だから相手ができる人数に、分離しなければ、事は始められない。


全騎馬隊は馬首を返すと、荒れ地を全力疾走した。

乾いた地面が数千の蹄で抉られ、土煙が不吉な濃霧のように湧き上がる。


自軍の歩兵は、遠くで布陣し、命懸けの鬼ごっこを見物している。

機動力のない彼らはまだ出番ではないだけだ。

事が成れば、のちに重要な役目がある。


 やがて曹洪そうこうが並走し、馬蹄ばていの重音の中で声を張った。


「後ろを見てくださいっ!体力のない者は脱落し、若者が追っています。

武器を持った者もいますっ。隠れていた兵士たちが、うまく釣れていますよっ!」


少女も後ろを振り向き、砂ぼこりの奥へ目を凝した。


「おおっ荀司馬じゅんしばの策が当たったなっ」

「それは、よかった、ですっ!」

新人司馬は息切れぎみに返答に、少女は可笑しそうに笑った。

「ははっ、生きて帰れたら一緒に遠乗りの訓練をしようっ」


そして腰の革袋から小さいが特殊なしょうを取り出した。

一際澄んだ高音が、重い地響きを裂いて鳴り渡る。


 それを合図に、騎馬隊は見事に左右に割れた。


当然、追う青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞくの先頭集団も二手に別れる。

だがそれはぎこちなく、惑うような動きだった。


 それからは、ひどいものである。

黄巾賊の後方は、前方で何が起きているのか知る術がないらしい。


押し寄る人波につぶされる者が続出した。

あるいは、左右の騎馬隊を目ざとく見つけ、脇に外れて追おうとする者が出た。

その無軌道な動きに、さらに多重の衝突が起こる……。


沸き立つ鍋のような混乱の下では、幾千のうめき声が地を這いずり回っている。

それを踏みつぶし、獲物を諦めない兵士たちはふたたび殺到を再開した。

 

その第二波を見て、少女は「おおっ」と驚いた。

「聞いた通り、彼らは狂暴な人間だ。

倒れた者を踏みつけにするのに躊躇がなさ過ぎる」


 怒り狂う獣と化し咆哮する黄巾賊は敵が避難している広大な草原に侵入した。

青々とした草地を進んだとたん、勝手に転倒してのたうち回る。

苦しむ仲間を渡り越えて、地面に降りた者もまた、ギャッと悲鳴を上げて転がった。


「これは、安価なのに効くね。量産決定だ」


 少女は撒菱まきびしを指ではじくと、革手袋をした手で怪我をしないように器用に掴んだ。

それはすでに広範囲に撒かれており、回り込もうとした者たちも辺鄙な所で陸に上げられた魚のように暴れている。


 草原を前にした黄巾賊は、やっと全体を見渡す。

左右の騎馬隊の前には、迎撃用の弩弓隊が整列していた。

さらにその奥には、数万もの歩兵隊が槍の先を光らせ、布陣している。


鶴翼かくよく陣の変形だが、そんな名称は知らずとも、これは自分たちの命を食う死の形なのだと、本能的に察する。

そして足を止めたせいで疲労が湧き出し、とたんに身体が重くなる。

彼らは、完全に停止した。


……青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞくは超大群だが、ここまで来てくれた狂暴、いや、元気な奴らは、二、三万人か。

大軍から分離され、呆然としてる、いまが時機だ。


 少女は、奥に控える歩兵隊に攻撃を命じた。


伝令が軍旗で信号を送ると、まず四頭の馬で曳く革装甲の戦車が迅速に発進した。

小隊数個もそのあとを小魚のように駆け足でついてくる。


少女は、青州黄巾賊の動きを見張りながら思う。


……彼らは、自由すぎる兵士たちだ。

ここに到着した兵士もいれば、途中で疲れて、引き返した兵士もいた。

もしかしたら、地平を埋めるほどの群衆の奥で、何が起こっているのか知らない兵士もいたかもしれない。


兵士が統率されていない、それはつまり。


「彼らには指揮官がいない。いたとしても、兵を動かす能力がないという事だ。


方向転換さえできずに大量に自滅し、傷ついた仲間も救わず、今も敵を前にして立ち尽くしている。皆、どう動いたらいいのか、わからないのだ。

これは、指揮官のいない証拠だ。


初期の黄巾賊には指揮官がいたし、山賊だって作戦を考えていた。

もしも彼らがそのどちらかだったなら、潤沢な兵力を生かして、いくらでも私たちを追い込めただろう。


私たちは運がいい。

指揮者のない彼らは、大量の兵士というだけで、軍隊ではない。

……というのが、初戦の感想かな。これが、結論ではないけれど」


「そうですね。彼らは未知です。まだまだ観察と研究が必要です」

荀彧の慎重な言葉に、少女はうなずいた。


 話しているうちに、戦車二十台ほどが到着した。

戦車からは金属音を立てて重装甲の歩兵隊が降りてくる。

その手には大きな盾と長い棍が握られていた。


彼らを整列させていくのは、歩兵軍の指揮者は、鮑信ほうしんである。


それを見ていた黄巾賊は、まるで異形のモノにでも出会ったように仰天して逃げ出した。連鎖して、ほとんどの者が一斉に走り出す。

自分たちの巣である超大群へ帰っていくのだろう。


残ったのは、地面で呻く負傷した者と、あまりの恐怖で元の農民に戻ったように、小さく震えて動けなくなった者たちだった。


 無傷の者は武器を取り上げられ、抵抗する者は棍で殴られて気絶させられた。

中には死に物狂いに暴れる者もおり、殺傷の場面もあった。


生け捕りにされた者はきつく縄で縛られ、負傷した者は応急処置をされ、ずるずると戦車に引きずられていく。

鮑信ほうしんを始め歩兵たちは、彼らを生かして捕らえようと、それこそ戦う時と同じように懸命に働いた。


こうして、数千人の青州黄巾賊は、兗州軍の陣地へと運ばれていった。


つづく

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