第85話 東郡・東郡太守を辞任する

「ためらう事など、なにもありませんよ」

陳宮は静かに語るが、その瞳の奥は火炎のように熱い。


「狂暴な青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞくを放置していれば、いずれ、この東郡とうぐんにもなだれ込んでくるのです。


もしも撃退できなければ、食料を根こそぎ奪われ、村や町を破壊されるでしょう。

そして彼らは去ったあと、残された我々と民衆は、飢餓きがに苦しむのです。

そうなるのを待つのか、こちらから攻めて撃退するのか、その違いです。


あなたは、待っている人ではない。

ならば今、持てる最大の力を得て、戦うべきです。


そして青州黄巾賊を殲滅し、兗州えんしゅうを治め、その地を平和の足掛かりにするのです。

これこそまさに、覇王はおうの業でありましょう……」

 


 後日、兗州牧えんしゅうぼく劉岱りゅうたいは、あっけなく戦死した。

鮑信ほうしんが止めたにも関わらず出撃し、黄巾の大軍に呑まれたという。


……兗州の戦力でも上手く使わねば、総大将でさえ死ぬという事だ。

青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞくの勢いとは、なんと恐ろしい。


 陳宮は慌ただしく、少女に進言した。

曹太守そうたいしゅ、わたくしは、ふたたび鮑信ほうしん殿の所へ行ってまいります。


そして、あなたを正式に兗州牧えんしゅうぼくにするように、他の太守や、刺史、豪族を説得いたします。

鮑信ほうしん殿も協力して下さるので、話は早いはずです。


しかし当然ながら、この兗州牧の話は、あなたが青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞくと戦う事が大前提です。


ですから今すぐ、必要な軍備と軍編成を考えておいてくださいませ」


少女は緊張した面持ちで、一言「わかった」と承諾した。

……これでもう、引き返せなくなった。


陳宮もそれを理解してか、丁寧に拱手一礼すると、すぐに身をひるがえした。

しかし、思い出したように振り返る。


「そうですっ。肝心な事を忘れておりましたよ。

あなたが兗州牧えんしゅうぼくになるという事は、東郡太守とうぐんたいしゅがいなくなるという事です。


あなたが太守たいしゅをやめれば、黒山賊こくざんぞくが速攻で再結成するかもしれません。


あなたのように、軍事と内政を掌握できる者で、絶対に裏切らない人物を迅速に選んでください」



「やあ、元譲げんじょう殿、久しぶりだねっ」


急きょ呼び出された青年が早足でやってくるのを見て、少女も駆け寄った。

近頃は、隠れた山賊を見張るために白馬はくばという地に駐屯している夏侯惇元譲かこうとんげんじょうだった。


「お元気そうで何よりです。しかし、急にどうされたのです?」

青年はやや心配そうにたずねた。


「新しい問題が起きたのだ。だから、君にも新しい仕事を頼みたいんだ」


「なるほど、太守たいしゅは大変なお仕事でしょう。

しかしその手伝いでしたら、難しそうですね」


少女は思わず笑った。


「君がその東郡太守とうぐんたいしゅになるんだよ」


青年はキョトンとしたあと、やっと「え?」と驚いた。


「じゃ、じゃあ私の軍はどうなるのですか?まさか、解散ですかっ?

天塩にかけて、どこに出しても恥ずかしくないように育てたのに」


「君の軍は、君の軍のままさ。


君には、太守と軍人と両方を勤めてほしい。私と同じようにね。

今は何が起こるかわからない。太守になっても、自軍の訓練は怠らないでおくれ」


そう聞くと青年は明るい表情になり、大きく頷いた。


「わかりました。頑張ってみます!

太守の仕事に慣れるまでは、韓浩かんこう殿に軍の管理や訓練をお願いしてみようかな」


韓浩かんこう殿か。

確か元は、袁術えんじゅつ殿の所にいた方だったね。


君がそんなに信用するなんて、良い人をうちに招いていくれたんだな。

これからもそのような方がいたら、どんどん仲間にしてほしい」


「わかりました。

……ところで、曹太守そうたいしゅは太守を辞めて、一体、なんの仕事をされるのですか?

まさか、また軍人一択に戻るというわけではないんでしょう?」


「ふふっ。それは、すぐにわかるよ。

もしかしたら、無謀だと呆れてひっくり返るかもしれないけど」 

少女は苦笑して答えた。



 数日後、大規模な軍事訓練の最中、少女のもとへ陳宮ちんきゅう鮑信ほうしんと連れ立って訪れた。


以前はふくよかだった鮑信ほうしんだったが、死闘だった滎陽けいようの戦いののち、激しく痩せてしまったらしい。

まるで別人のように引き締まった体格になっていたが、ほんわりと柔和な笑顔は、会った時と変わっていない。


彼を見たとたん、軍服姿の少女は駆け寄るとその手を取った。


鮑信ほうしん殿っ!またお会いできると信じておりましたっ」

彼も瞳に薄く涙を浮かべ、感無量のようにうなずき、強く手を握り返した。


しかし少女は急に離れて直立すると、彼を正面から見つめ直す。


「今さらですが、滎陽けいようの戦いでは弟君が亡くなられたと聞きました。

遅すぎるのですが、ここで謝罪をさせてください」


深く頭を下げると、鮑信ほうしんはあわてた。


「頭を上げて下さい。戦場で命を落とすのは、仕方のないことです。

弟も、民のため、そして自分の正義のために命を懸けて戦えたのです。悔いはないでしょう。

そして私も、彼のように、人のために命を懸けて戦いたいと思いました。


私もあなたと一緒に、青州黄巾賊討伐せいしゅうこうきんぞくとうばつに参加するつもりでここに来ました。

また、ご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」


少女はこぼれた涙をぬぐい、相手を見上げた。


「あなたは、いつも私を助けてくれるのですね。

自分でも図々しいとはわかっているのですが、私はあなたを断わり、一人で事を成せる力も、自信もないのが現状です。


あなたの優しさを、あなたへの感謝と共に忘れる事はありません。


必ず、私たちで青州黄巾賊せいしゅうこうきんぞくを大人しくさせましょう。

兗州えんしゅうを平和な地に戻すのです」


「ええ、頑張りましょう」

二人は力強く拱手し、深く一礼した。


つづく

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