第77話 河内郡・張邈との友情
「
あなたは私たちが配下だと、勘違いしているのではないでしょうねっ?」
一緒にいた
とっさに双方をなだめようとしたが、袁紹の方が反応が早かった。
「おや、
こいつには、あなたが庇う価値などありませんよ」
そして軽蔑交じりに見下ろされる。
「こいつは、自分が守る土地もなく、能天気にうちに転がり込んでからぼーっと住みついている、まるで野良猫みたいな存在なのです。
今まで保護してやったのだから、少しは働けと頼んでいるだけですよ。
それに軍隊と戦えというのではなく、ド素人である山賊の退治を頼んでいる。
この気遣いに感謝してほしいくらいです。
山賊退治が成功すれば治安が安定し、董卓軍への備えも強化できるようになるでしょう。
こいつも多少は我らの役に立つ事ができるわけです」
「本初殿、あなたは最近、明らかにおかしくなりました」
張邈が言ったあと、少女も「いや、前からおかしいです」と勢いで付け加えそうになり、危うかった。
「我々は、董卓を討つために集まった同士なのですよ。
それなのに近頃のあなたときたら、
あなたは最近、やっていることがすべて董卓に関係ない事ばかりです。
バレていないと思っているかもしれませんが、皆、知っているのですよ。
そして今回の山賊退治だって反董卓軍のためではなく、あなたの管轄地、冀州の治安維持のためでしょう。
山賊は、冀州と兗州の境目に住み着いているのですからね。
お願いです。初心を思い出してほしいのです。
私たちは、世の平和のために集まったのですよ。
あなたのために、戦ったり、働くためではないのです」
「なるほど、わかった」
袁紹は感情の読めない目をすると腰に佩いている長剣に手をかけた。
「では君は、もう何もしなくていい」
その唐突な態度に、張邈は茫然として、立ちすくんだ。
友人だと思っていた相手が話し合う事もなく……私に何をしようとしている……?
「ま、まさか。待ってくださいよ……。
言い返せないからって……それは、いけませんよ」
少女は思わず声をかけた。
しかし咎められた相手は気に掛ける事もなく、柄をわずかに引き上げる。
その袁紹の動きと連動するように、少女も細腰に佩いている左右の剣を抜刀するために交差させた。
そこでようやく、袁紹は手を止めて、視線だけで少女を見下ろした。
その表情は苦り切り、すでに後悔の色が強い。
苦悶に満ちた目で、壮年の男を見上げる。
……なんでこんな事に。ここで袁紹に逆らうなんて、死ぬかもしれないぞ。
でも、私のために彼を注意した
「彼は、大事な友人であり、恩人なのです」
思ったよりも声が震え、恥ずかしく思いつつも話し続ける。
「董卓に追われて行き場のなくなった私を、張邈殿が
私が今生きてここにいるのは、彼のおかげでもあるのです。
だから、たとえ相手があなたでも、私は、恩人の彼を見殺しにはできないのです」
たどたどしくも言い切ると、これが死因でも悪くないかもしれない、と思った。
「はあっ?お前一体、誰を斬るつもりだって?ハッキリ言ってみろっ!」
袁紹は凶悪な顏をして吼えた。
「あっ、そうか、わかったぞ」
口元を異様に釣り上げて笑ったが、その目は全く、笑っていない。
激昂交じりの得体の知れない一人話を、少女は瞬きを忘れて聞いている。
「お前が、私の代わりにこの生意気な張邈を斬ってくれるというわけだ?
そうだろう?!」
そして長剣の柄から手を離すと、張邈を指さした。
「さあっ、今すぐこいつを殺せっ。
私に反抗的なこいつを、お前の手で殺すんだ。
そしてこいつとは違って馬鹿ではないと、今ここで証明しろっ」
「いやですっ絶対にっ!」
大声で即答してしまい、自分で自分の声量に驚く。
相手も、わずかにたじろいた。
その一瞬を見逃さず、少女は剣から手を離すと、まるで自分にも言い聞かせるように言った。
「つまらないケンカはもう止めましょう。私たち全員が馬鹿みたいですよっ」
そして少女は袁紹の瞳を懇願するようにのぞいた。
「あなたは冀州牧という、高い地位にいる方なのですよ。
間違っている事と、正しい事は、しっかりと判断しなくてはいけません。
張邈殿の話は、言い方が少し良くなかったかもしれませんが、こんな大ごとになるような内容ではなかったでしょう?
もしも気に障ったなら、我々をどうか許してください」
袁紹は冷ややかな表情で話を聞いていたが、ふと、まばたきを一つすると、一瞬で毒気が抜けたように表情を和らげた。
「わかった。ここは、お前に免じて許してやろう」
「あっ、ありがとうございますっ」
少女は明るい笑顔になり、張邈を見て、さらに微笑んだ。
「本初殿の度量の深さに痛み入ります」
二人は並んで拱手し、深く頭を下げた。
袁紹はまんざらでもない様子で、それを見ていた。
「ふむ、やはりお前に目にかけておいて良かった」
まるで今までの不穏な騒ぎがなかったように、にこやかに少女に話しかける。
「お前が恩義と友情を命をかけるほど大切にしている事がよくわかった。
お前のような人間は、簡単に人を裏切りはしないのだろう。
あとで二人きりで、落ち着いて、山賊の話をしようではないか。
「はい。わかりました」
少女は拱手し、袁紹が立ち去るまで頭を下げていた。
「あ、ありがとう、孟徳殿。
あなたがいなかったら、私はどうなっていたことか……」
先ほどの袁紹に対する怒りは今は消えたのか、今はいつもの控え目な様子の張邈に戻っていた。
彼も最近、どことなく不安定な様子がある。
それはもしかしたら、冀州を袁紹に譲った
張邈は、すべてを奪われてしまった韓馥を丁重に扱った。
自分の領地に住まわせていたのだが、ある日、そこに袁紹の使者がやってきた。
韓馥は、袁紹の使者と張邈が話している様子を垣間見て、自分は殺されるのだ、と勘違いしてしまったという。
そしてそのまま、
……本来ならば、大きな幸福を譲られた袁紹自身が、韓馥を手厚く
冀州内の静かな田舎にでも屋敷を作り、そこで親族たちと暮らしてもらえば、このような悲劇は起こらなかったのではないのか……。
……袁紹の無礼のせいで、韓馥は張邈のそばで死んでしまった。
なのに今でも態度を改める様子はない。
その事に、張邈は強い怒りを感じてしまったのかもしれない……。
少女は今一度、彼の心の温かさを思い出したように頷いて、答えた。
「お礼を言うなら、私の方ですよ。庇ってくださって、ありがとうございました。
いや、お礼どころか、あなたは私のせいでこのような災難にあってしまったのです。
謝罪も必要ですよ。申し訳ありませんでした」
「そんな、頭を上げてください」
張邈は驚いて少女に言うと、二人は再び見合った。
「まあ、お互い、無事でよかったです。
本初殿は昔から、まあその、ヘンな所もあるけど、心が広い人でもあります。
だから何だかんだで、皆に慕われている。
今回はその彼の良い部分に救われましたね」
「たしかに彼は、絶望的に悪い男ではない。
しかし時々、失望してしまいます。
私はこれから何が起こるのか、とても不安で眠れない時があるのですよ。
とても、心配です……」
「未来も、人の心も、移ろいやすく、予想できないものです。
そのような事を深く考えるより、今、自分にできる事を一生懸命やりましょう」
張邈は痛ましいような表情で少女を見た。
「山賊退治を、一生懸命するのですか……?」
少女は歯を見せて笑った。
「ええ。まあ、袁紹の使い走りは慣れていますよ。
それに何が効するか、わかりませんからね。
拙いかもしれませんが、一生懸命やろうと思います。
まあ、董卓は直接関係ないかもしれませんが、山賊を退治すれば、被害を受けている民を救えるかもしれない。それだけでも、とても嬉しい事です。
それに、袁紹は私の事を
いつ追い出されてもおかしくなかったのに居場所を与えてくれていたのは心から感謝しているのです。
その恩も、これで返せるなら、ありがたい話です。
それに……」
と、小声で付け加えた。
「袁紹のそばから離れられるのも、嬉しいですからね」
張邈がやっと少し笑ったので、少女も一緒に笑った。
つづく
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