第72話 河内郡・情報収集

 「孟徳もうとく殿」

ふと、声をかけられて、顏を上げた。


ささやかな夕餉ゆうげを取り、静かな時間を過ごしている時だった。

読み物から集中が途切れると、部屋の薄暗さに驚く。


片手に剣を持つと、訪問者を確かめに入り口へ向かった。

聞き覚えのある声だが、用心深く、少しだけ戸を開けてのぞく。


小さな灯火ともしびを持つ女の使用人が立っていた。

変装をした、自分の間者だった。


「灯りをお持ちいたしました」

「おお、助かるよ。入りたまえ」

少女は彼女を笑顔で迎え入れた。


龍亢りゅうこうでは思いがけない出来事の中、ご無事で何よりでした。

肝心なところでお役に立てず、申し訳ありませんでした」


出された白湯を飲む前に、間者は頭を下げた。


「君が謝る必要はないよ。

君には君の仕事があり、私から遠く離れていただけだ。

悪いのは私を裏切り、殺そうとした者だけだ。

彼らは苦しむように殺してやったから、多少は清々した」


「お気遣い、ありがとうございます。

裏切り者に関しては、何よりでございます。


ところで、私どもが集めた情報をお話してよろしいでしょうか?

少し長くなるかもしれませんが」


少女は目を輝かせた。

「助かるよ。近頃は自軍に忙しく、周囲の出来事にまで気が回らなかったんだ」


 間者はうなずくと、話を始めた。


 今は解散したが、酸棗さんそうの反董卓連合の陣地では、橋瑁きょうぼう劉岱りゅうたいという人物がもめ、殺し合いになったという。


 結果、橋瑁が殺害され、東郡太守の地位が空いた。

そこには王肱という人物がついた。


 そして、王匡おうきょうという河内太守が、董卓の隙を狙い、出撃の準備をしているとの事。


 滎陽けいようで共に戦った鮑信ほうしん殿は、兵士もほとんど失い、故郷へ戻ってしまった事。


少女は鮑信の話を聞くと、思わず涙をこぼれかけた。

彼が故郷へ戻ってしまった事は知らなかった。


酸棗では孤立していたが、彼と衛茲えいじだけが味方になってくれた。

しかしそのせいで、衛茲は戦死し、鮑信は弟を亡くし戦線離脱してしまった。

気がゆるむと、自分の罪深さと力不足に苛まれて、ひどい憂鬱に沈みそうになる。


……とにかく、鮑信殿にはいつか直接会って、謝りたい。

少女は話を聞きながら、静かに思った。


「以上です」


間者はそう締めくくると、一口、白湯を呑んだ。

 

「ふむ、ありがとう。

鮑信殿には一言、謝りたかったな……」

 

「きっといつか、お会いできます。

鮑信殿は、また孟徳殿に会える日を楽しみにしているとおっしゃられていました。

離れていても、武運は祈っています、と」


少女はつい涙があふれ、袖で目の端をおさえた。


「素晴らしい人に出会えて、私は運がいい。鮑信殿には、絶対にまた会うんだ」


「ええ。わが君は人に恵まれています。

きっとこれも天の助けです。人を、大切にしてください」


少女は小さくうなずくと、かすかに微笑んだ。


「ところで、少し気になったのだけど」

少女は鼻をすすりながら、間者を見つめた。


「なんでしょう?」


「君から見て、気になる人物とかいるのかな?面白い人物とか?」


「それでしたら、孫堅そんけん殿ですね。袁術殿と組まれている方です」

即答だった。


「ふむ。聞いた事のある名前だ。

たしか黄巾賊討伐にも参加し、涼州や長沙の反乱でも活躍した人物だったような」


「そうです。涼州では、当時の董卓の働きがとても悪く、非協力的、反抗的という罪で処刑を求めたのは、この孫堅殿でした」


少女は驚いた。


「やはり刑罰は厳格にするべきだね。

彼の申し出通りに董卓を処刑していれば、今の混乱はなかったかもしれない」


「その孫堅殿が、董卓討伐に出撃するようなのです。

因縁浅からぬ二人が、戦う事になるかもしれません」


「董卓も孫堅も、戦争の玄人同士だ。たしかに、気になるね」


そして、わずかに片眉をあげた。


「気になる事がもう一つある。

袁紹側も王匡おうきょうという河内太守が出撃しようとしている、と言っていたね。


王匡と孫堅は、連携する事はないのかな?

つまり彼らの主である、袁紹と袁術は、連携をしないという事なのだろうか?」


間者は、ハッとして瞳を大きくした。


「それも、そうですね。袁兄弟の仲も探っておくべきですね……」


「そうだね。この微妙な距離感は、少し気になる。


まさかこんな時に仲たがいするわけはないと思うが、あの二人は理解し難い所がある。

万が一、兄弟喧嘩でも始まったら完全に反董卓連合は解散だ。

この世は董卓の思うままになってしまうだろう」


「わかりました。探る者を増やしておきます」


「とても助かるよ。情報は、戦場での兵士や武器と同じくらい重要だ」


「ところで私も気になる事があります。聞いてもいいですか?」


少女は、目を瞬いて相手を見つめた。

「おや、なんだい?」


「孟徳殿は袁紹殿の所で落ち着くおつもりなのですか?配下になると?」


間者の問いに、少女は悪寒がしたらしく両腕を抱き、眉をひそめた。


「まさか。期間限定さ。

悔しいけど、今の私は袁紹に頼るしか方法がないからね。


でも、私は絶対にあいつの配下にはならないよ。

そりゃあ世話になっているから気は使うけど、気持ちだけは対等さ。

実際は全然、対等じゃないのはわかっているけど、そこはハッタリと強がりで誤魔化してやっていくしかない。


だいたい、この大混乱の原因の責任は、彼にもあると思っている。

そこを見て見ぬ振りをして、配下には、なりたくない」


「わかりました。素直にお気持ちをお教えいただきありがとうございました。

わが君のお考えをふまえて、私どもは働きます」


「これからも末永く、よろしく頼むよ。君たちには、心から感謝している」


つづく

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