第69話 豫州・号泣
青年は全裸将軍に驚いた。
「お、お着物、どうされました?」
「洗っても、血の匂いが取れないのじゃ。それに洗ったばっかりの着物など冷たくて重くて、着てられんわ……」
少女は地の底から響くような重苦しい声で答えた。
「それも、そうですね」
そう言うと、青年は自分の上着を脱いだ。
「これでもよければ、どうぞ。
血塗れのあなたがひっついてきたので、これも血の匂いがしますけど」
少女は優しく上着をかけられると、急に突っ伏して号泣し始めた。
上着を引っ張って頭から被ったので、大きな袋が泣いているようでもある。
青年は焚火越しにその様子を無言で眺めていた。
そのうち泣き疲れて寝るだろうと大きなあくびをして寝そべり、目を閉じる。
そのとたん、大きな声で名前を呼ばれたので、彼は驚き目を開いた。
少女は八つ当たりぎみに喚くように話しはじめた。
さきほどの出来事の恨み言から始まり、そのうち、自分の生まれが卑しいやら、親に見捨てられているやら闇の深い話になった。
とりとめのない話にウトウトしながらも励していたが、青年はいつしか関係ない事を考えはじめる。
……この人、ついさっき、何十人と殺傷した後、川で洗濯し、その後に赤子のように力いっぱい泣いて、さらに興奮しながら長話を続けている。体力だけはあるよなあ……。
少女はまだまだ話している。
「もし父上がお爺様に拾われてなかったら、貧困で父も私も、死ぬよりひどい生活をしていたかもしれない。
ましてや豪族の君と知り合うことも、話すこともできなかっただっただろうねっ。
結局、私は運が良かっただけの人間なんだ。
ま、なんにしても、私は蔑まれて、嫌われる存在なのは変わりがないがね。
お前だって、いずれこんな私に愛想が尽きて、見捨てるだろうよっ」
「じゃあもう何もかも忘れて、私と結婚してのんびり田舎で暮らしましょうよ?」
少女は激怒した。
「お前はさっきからそればっかりっ。適当な返事にも程があるわっ」
「心外ですね。明日どころか、今をも知れない儚い人生なのですよ。
限りある時間を、できるだけ長く好きな人と仲良く過ごしたいと思うのは、適当な気持ちではないと思います」
「うーっ、定型文の口説き文句を聞いて、頭が痛くなってきたっ」
「ひどいです。私は胸が痛くなりました」
「お前の胸の具合なんてどうでもいいわっ。いやもう、全部どうでもいいっ。
どうせ、家柄も、育ちも良く、構ってくれる両親もいたお前には、その正反対の私の気持ちなんてわからんのじゃっ。
お前だって本当は……」
言い終わらないうちに、青年が近寄ってきて、身体を掴んだ。
「ギャッ!」
と、少女はひゅっと顏を上着の中に引っ込めたので、次は恐る恐る背中を撫でた。
少女は恐る恐る上着から顔を出すと、相手を見上げた。
「……なんなんじゃ、この、唐突で、不器用な慰め方は?」
青年はぴたりと手を止めて、しゅんとした。
「すみません。こういう時はどうすればいいのかわからなくて。
私は、途方に暮れているのです……」
少女はハッとして黙り込んだあと、小さくうなずいた。
「わかる。すねた人間ほど、面倒なものはないのじゃ……」
「でしょう。だから今、私がとても困っているが、わかったでしょう」
二人は無言で見合っていたが、やがて苦笑いを交わした。
「やっと、あなたがちょっとでも笑って良かったです」
そして、相手の背中に手を乗せたまま、口を開いた。
「たしかに、あなたがどっぷりと落ち込む気持ちはわかります。
味方からもずっと仲間外れ、戦えば全滅、献策は二回も不採用。
募兵も曹洪殿頼りきり、あげくに反乱されて逃げられたのですから」
「うー……」
少女はまた涙目になったが、青年は続けた。
「でも、誰だって、いつでも調子が良い時ばかりじゃないはずです。
今のあなたは、調子が悪いだけですよ。
とくに私たちはまだ、戦争初心者ですし、失敗が多くて当たり前だと思います。
まあ、この励ましも定型文ぽくて申し訳ないですけれど……」
少女が何も言わないので、青年は続けた。
「それにしても、あなたはいつも辛い気持ちは詩に変えたりして、心を整頓したり、我慢をして耐えているのに、今は直接そんなに泣いて、よほど参ってしまったんですね。
あなたがずっと一生懸命、頑張ってきたのは私が知っていますし、それこそがもっとも立派で、大切なのです。
あなたがまだ頑張るなら、私もまた一緒に頑張ります」
少女はふたたび上着を頭から被り、すすり泣いた。
「あっ。それと、ついでに言っておきます。
あまり、ご自分を卑下なさらないことです」
青年は何か思い出したらしく、続ける。
「私もですが、あなたに味方している人は、あなたに惹かれて集まっているのです。たとえば、性格やら、才能やら、いろいろ。
誰も、あなたの家系や育ちなんて、気にしていません。
そういうのに惹かれる人は、すでに袁紹や袁術を選んでいます」
相手の鼻のすする音の中、青年は続けた。
「以前、曹洪殿の前で、あなたは戦場で自暴自棄のようになったのを、憶えていますか。死地で彼から馬を譲られた時、拒否されたそうですね。
そんな事をしたら、死ぬとわかっているのに、断わったのでしょう?
一体どういうつもりだったのか、と、彼は今でも、時々、心配していますよ。
馬の件は、彼があなたを助けたから良かったです。
ですが、もしもお一人の時にそんな気持ちになられたらと思うと、私も心配です。
少なくとも、私は自分の命よりもあなたの方が大事なのです。
曹洪殿もそのような気持ちで、あなたを助けたのです。
なのに、あなた自身が、自分を見捨てるような事をしたり、言っていたら、逆に私たちこそ、あなたに見捨てられたような、悲しい気持ちになります。
もしかしたらあれは自暴自棄ではなく、ご自分の命より曹洪殿を大事に思ったのかもしれません。しかし私たちも、あなたに対してそのような気持ちで思っているのです。
それをどうか、忘れないでいただきたいものです。
どうぞ、ご自分を大切にしてください」
しばらく鼻をすすっていたが、少女は上着から顔を出し、かすれた声で返事をした。
「……わかったよ」
そして、話し出す。
「今、いちばん大事なのは、人々に平穏を取り戻す事だった。
董卓の暴虐に、皆、毎日怯えて暮らしているんだ。
不安や恐れを口にすれば処罰されるから、不満さえ口に出せない。
皆ただ、一方的に苦しめられている。
それに比べたら、私の今のつらい気持ちなんて大したことはない。
とにかく早く、決着をつけなければいけない……」
青年は頷いた。
「じゃあ、また、がんばりましょう。少しづつでも。
今日は明日の為に、早く寝ましょう。
もう一枚、私の着物を貸してあげますよ。
焚き火があっても、裸に上着一枚だけでは冷えるでしょうからね」
つづく
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