第59話 滎陽・敗残兵

 周囲の敵が始末されていく中、曹洪は深い安堵の息を吐いて落ち着いてから、再び夏侯惇を見上げた。 


総指揮官が指揮不能となった際、副将の彼がその代わりになると聞いた時、曹洪はいぶかしんだものだった。


この幼い頃から、この友人はどちらかというと、間抜けでお人よしのお坊っちゃんという印象だったからだ。


しかし今の様子を見て、彼が副将というのは、あながち間違っていなかったのかも、と、すこし思い直していた。


「た、助かったよ。君、すごいよ、まだ組織で動けていたなんて。

うちの隊とっくの昔に、崩壊してしまった……」


「いやあ、私の隊は待ち伏せと遊撃を担当したから、散り散りにならなかっただけさ。

それでも、いまや残っているのは千人ほどじゃないかな。

生き残っている味方を助けて集めてもこれだから、酷いものさ」


「なんにせよ、まるでまさに天の助けだったよ。

私たちは今から逃げるから、君は、殿軍をつとめてくれないか」


 曹洪はそう言うと、口笛を吹いて今一度、自分の馬を呼び寄せた。

元譲の兵士たちの守りの囲いを器用にぬって、やってくる。

そして曹洪は、少女を隠していた盾を持ち上げ、それを横に放り投げた。


「ぎゃっ!!」

突然、猫が踏まれたような絶叫がこだましたと思ったら、突き飛ばされてゴロゴロと転がっていた。

一体何が起こったかわからないまま顔を起こすと、少女の傍で戦慄いている元譲の後ろ姿が目に入った。


「君!これは!絶対に許さんからなっ!」


先ほどまで微笑んでいた青年と同一人物だとは思えないほど、激怒の上に激怒した青年は剣の柄に手をかけていた。


「えっ?ちょっと落ち着いて下さい!何を激怒されていらしゃっるのっ?!」

相手は怒りで混乱し、曹洪も恐怖で混乱した。


「私がやったんじゃないし、私はどっちかというと助けたんだし!

ついでにまだ、死んでないしっ!」


その言葉に、青年は動きを止めた。


「ほんとに?」


「ほんとほんと。この早とちりさんめ。

ああ、君のバカに付き合った時間が究極に勿体ないね。

こうしてる間に、孟徳殿が死なないか心配だ」


二人は慌てて、やっと正体なく倒れたままの少女に近寄った。

頬を軽く叩いても、起きる様子がない。


「深く気絶してるな。重症か?」

子廉は今さらながら動揺して言った。


「いや。矢は完全には身体に入っていないから、そうでもないと思うんだけど。

それにこれって気絶してるというより、熟睡してる感じがするなあ。寝息的に」


「は?熟睡?ズルい、私も早く寝たいんだけど」


二人は会話しながら少女の肩に刺さった矢を観察し、それをそっと引き抜いた。

矢先には半分ほど、赤く鮮やかな血が付着している。

破れた着物の隙間からも、それが溢れてきた。


「ひえ……」

その出血に元譲殿は泣きそうな声を出しながらも、てきぱきと着物その他をずらして傷口に水をかけた。

そして血止めの薬草を塗ると、布で強く縛る。


「わあ、君、めちゃくちゃ手際がよろしいな」

つい子廉殿は感心してつぶやいた。


「今まで、何人も手当してきたからね。この辺りは薬草が多くて幸運だった。

それよりこれは応急処置なのだ。

早く落ち着いた場所に移動して縫わないと、出血が多いから心配だ」


「よし。ではもう撤退しよう。

林を突き抜けると大きな川がある。それを渡って逃げるんだ」


そう言いながら、曹洪は少女を馬の上にうつ伏せて乗せた。


騎馬隊が移動し始めると、合図をせずとも歩兵たちも集まり、皆で藪と林を走り抜けていく。


夕闇が迫る中、すでに黒い影のように鬱蒼とした木々を過ぎると、目の前にゆったりと流れる大河が現れた。


 水面は、夕焼けが落ちて散らばったように、赤くきらめいている。

兵士たちは声を上げて駆け寄ると、川の水でのどを潤したり、汚れた血を洗い流したり、各々自由にした。


 子廉は船を探すと言って去った。

元譲はその間に、完全に暗くなる前に少女のを肩の傷を縫う事にした。


自分の縫い針は曲がり、糸も汚れていたので、少女の身を探ると、手当の道具を見つけだした。

新しい針と糸を準備して、再度傷口を清めて、縫合していく。


かなりの激痛のはずなのだが、少女は起きる素振りもない。

静かな寝息を立てている。

……持病の頭痛はかなりキツイらしいから、それに慣れていると、この痛みも大したことないのかな……。


 手当が終わると、気が抜けた。

兵士たちも自然と周囲に集まり、それぞれ束の間の休息を取っている。

少女は時々、大きなため息のような寝息を立てるが、ほとんど音なく眠り続ける。


……ここ滎陽は、劉邦と項羽が激しく戦った土地だ。


青年はぼんやりした目で、少女を見ながら思う。

……私の祖先の夏侯嬰殿も四百年前のここで主人とあたふたしてたと思うと感慨深いものがあるな……。


 子廉に声をかけられ、ハッとして青年は目を開けた。

知らないうちに、うたた寝をしていたようだ。


「やあ、また、お互い無事に会えてよかった。

渡りの船を見つけたから、拝借させてもらってきた。


馬も乗れるから、私たちはそれで向こう岸へ渡る。

船はこちらに戻さず、用心のために沈める。


君は敵兵の追撃を抑えて、できるだけ時間を稼ぎつつ、酸棗さんそうに戻ってきてほしい」


元譲は肩をすくめた。


「君、簡単に言ってくれるね。担当、交代してくんない?


あと酸棗に戻るのはダメだよ絶対。最初に、孟徳殿が言っていただろう」


断言した元譲に、曹洪はかすかに眉を寄せた。


「じゃあ、どこへ戻れというのさ?」


「譙県だ。私たちの故郷さ」


曹洪はハッとして、目を輝かせて頷いた。


「なるほど!それなら間道もたくさん知っているし、酸棗に迷惑をかける事もない。

敵もわざわざ、我々のような少数の敗残兵を、進軍進路から大きく外れてまで追ってこないはずだ。


いやあ、すっかり、撤退する時は、酸棗以外、帰る場所はないと思い込んでいた。

私には思いつかなかったよ。


初めて君を尊敬したね。

バカなのか、なんなのか、君がよくわからなくなったよ。

とにかくちょっと見直した。


では、私の別宅を、隠れ家にしよう。

うちの敷地内の森の中にある、狩りの時期にだけ使う屋敷だ。君も知ってるだろう?

あとから来るがいい」


二人は頷き合い、それから曹洪は続けた。


「それと、やはり逃げる担当は私だ。

この白鵠はくこくを一番早く走らせる事ができるのは、主人である私だからな。

譙県までだと、半日もかからないだろう。


それに正直言うと、ここで軍の指揮を交代しても、君みたいに上手く兵士をまとめる自信がない。


皆も、今まで通り君が指揮した方が安心するだろう。そんな気がする」


曹洪は真顔で言うと、相手の返事も聞かずに白鵠という名の馬に乗った。

そして元譲から少女を受け取ると、大事に抱える。


「わかったよ。じゃあ気を付けて。ご武運を」

「君には助けてもらってばかりだった。ありがとう。君こそまだ武運が必要だ。

逃げる私の分も貸してあげるから、あとで倍にして、かならず返してくれよ」


 二人は拱手し一礼すると、別れた。

馬も一緒に船に乗り、川を渡ると、子廉たちの姿はすぐに闇に紛れて見えなくなった。


「さてはて。これからどうしたらいいのか、全くわからない」


元譲はつぶやいた。


「夏侯副将」

呼ばれて振り向くと、いつもは少女についている間者がひざまづいている。


「おや、あなた、あちらに付いて行かなかったのですか?」

  

「曹洪殿の馬には追いつけませんので、残る事にしました」

今は兵士の格好をした間者は言った。


「それよりも、まだ夏侯淵殿と鮑信殿の部隊が残っているのです。

私の部下を使ってこちらに誘導しましたので、合流してから撤退してください」


「えっ!?この混乱の中でよく見つけられましたね。ありがたい」


「私の相棒は良く鼻が利きますので、人探しは得意なのです」


二人の生存報告を聞いて破顔していたが、ふと、神妙な表情をした。


衛茲えいじ殿は?」

間者は一瞬、目を逸らせはしたが、すぐに答えた。


「戦死されたと思われます。衛茲軍の兵士は数千おりましたが、今やほとんど見かけません」


青年は思わず口元に手をあてた。

「……そう。残念です、とても……」


小さな声で言うと、間者も頷いた。

「とても優しい方でした。世の中の為に命を懸けた義人です」


「ええ。良い人です。衛茲殿に助けてもらったおかげで私たちはここにいると思っています。感謝しきれない人物です」


その言葉を聞き、元衛茲に仕えていた間者は少し唇をかみしめ、小さくうなずいた。

しかし、素早く気持ちを切り替え、顔を上げた。


「ところで、夏侯副将はこの後はどうしようとお考えですか?」


「ああ、それがまったく、何も考えてないんだ。

どうしたらいいと思いますか?」


率直すぎる問いに一瞬言葉を失ったが、思わず笑みを浮かべて答えた。


「ここから遠いのですが、川沿いに進むと橋がありました。

渡った後、橋を落としてしまえば時間が、かなり稼げます」


「おおっ。私たちもそこから逃げよう。今から移動するんだ。

私たちもヘトヘトで、もう戦いたくない。早く帰りたいのだ」


間者は驚いた。


「えっ?夏侯淵殿たちをお待ちにならないのですか?」


「そんな、待ち合わせのように戦場で悠長に待ってるのも怖いよ。

それに、その橋もいつまで健在かわからないし。

先に私たちが到着して、死守した方がいい。


あと、ここは岸辺で足跡が残るだろう。

いなければ、足跡を見て追ってくるだろうさ。

そのうち月も出るだろし、生きるためには必死に観察して、走ってくるでしょう」


「な、なるほど。では、移動を開始しましょう」


間者は立ち上がり、口笛を吹くと自分の馬を呼んだ。


つづく

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