第58話 滎陽・敗北の瞬間 ~二日目の夕方~

いつもと変わらない夕暮れの空が、一日の終わりを告げようとしている。

いつもと違うのは、視界に入るのは死体と、敵兵ばかりという事だった。


……もしかして、私一人になったのだろうか?


それならそれで別によかった。

刃こぼれがひどく、いつ折れても不思議ではない剣を強く払った。

刀身についた血潮を地面に落とし、手元で一回転させて持ち直す。


繰り返しが始まる。

敵兵たちには、一人きりのこちらが草食動物のように見えるらしい。

獲物を見つけた肉食獣みたく威勢よく迫るが、そのうち仲間が死んでいくのを見て、実はその逆だったと気づくのだ。そしてあわてて逃げて行く。


しかしいずれこの繰り返しもできなくなる。

まず、剣が折れるだろう。

それを懸念して使用を控えた時もあったが、武器を保存して死んだらバカみたいだな、と思い、今は使い潰す気だった。

そして、自分の体力も尽きる。

終わりは全てのものに平等に訪れるものだ。

……いやもう、そんな事なんて、すべてどうでもいい……。


 ふいに、後ろで聞き慣れた声が聞こえた。


幻聴かと思いつつ振り返った。

すると、曹洪が十数名の兵士に囲われようとしている。

少女は太ももに装備している短剣をいくつか投げて、敵に鋭く突き立てた。

そして駆け寄る。

相手が二人組になると、兵士たちは逃げ去った。


「おおっ幻覚ではなかったのですね!よくぞご無事で!

それに、ありがとうございましたっ。逆にこちらが助けられましたっ」  


笑顔の曹洪は血みどろで、まるで邪悪な儀式に参加した人のようだった。

実際、戦争という邪悪な儀式に参加しているわけなのだが。


嬉しそうな彼を、少女は呆れた表情で見上げた。

「君、まだ逃げてなかったとは。うちはもう全滅だ。君も早く逃げないと死んでしまうよ」


冷静というよりそれを飛び越えて他人事のような物言いに、曹洪は眉をひそめた。


「あなたは?それならば、あなたも逃げないと」

「私?わたしは……」

うまく言葉が出ない自分自身に戸惑う。


「私はその、馬がいなくなってしまった。だからそのうち、歩いて帰るよ……」

「はっ?な、何をおっしゃっているのですっ?」

曹洪はつい相手に近づいて、正気なのか確かめるように見つめた。


「しっかりなさって下さいっ。私の馬を貸しますから、もう撤退しましょう。

あなたも私も、十分しつこく、いや、頑張りました。退く事も大切ですよ」


そして口笛を吹くと、灰色の馬がどこからか現れ曹洪はそのくつわを取った。

少女は目をパチクリさせていたが、数歩、恐れるように後ずさりした。


「いや。それは子廉しれん殿の馬なんだから君が乗って逃げるべきだろう。私の事は気にしないでいい」


曹洪は思わず詰め寄った。


「あなたは何を言っているのです。

私はここで死んでも問題ありませんが、あなたは違います。

狂った世界を元に戻すために、あなたは必要なのです」

勢いで、柄にもない事を口走り、曹洪は血の汚れの下で赤面した。


「と、とにかく、あなたは私の主です。

だから、私は命に代えてもあなたを助けるというわけですよ。

とりあえず安全圏に出るまでは、この馬を使ってください」


今まで見た事もない一途な表情と眼光の強さに呑まれて茫然としていたが、ふと、夢から覚めたように目を伏せた。

その様子に、彼も涙ぐむと、無理に苦笑いを浮かべた。


「お互い、よく生き延びました。私たちは幸運です。

生きて、悔しいなら、次は勝ちましょう」


 突如、馬がいななき暴れたので、曹洪は強くひっぱられて前のめりになった。

その瞬間、背後から風切り音が一つ聞こえた。

腕の間近を何かが通り過ぎる。


まずい!と思ったのと、それが目に入ったのは同時だった。


左肩に矢が刺さった少女は、すでに地面に倒れ込んだ。


「うっ、嘘でしょっ!?」


 曹洪はまだ矢が射られているにも関わらず、少女に駆け寄った。

そしてその足を掴むと引きずって逃げる。


足手まといとなった少女を見て、周囲の藪から敵が湧き出した。

曹洪は少女を落ちていた盾の下に隠し、剣を抜く。

やたらと、その手に強い力が入る。


背後からも、蹄の音も聞こえてきた。

騎馬隊まで来たのだ。


……敵の動きは完璧だな。さて、生け捕られるか、ここで殺されるのか。


やけに冷静に、とりあえず悔いなく戦おう、と思った。


 そして敵兵たちが、間合いに入ろうとした時だった。

瞬く間に、倒れていく。


そして目の前を騎馬隊に囲まれた。

目を疑ったが、それは確かに自軍の騎馬隊だった。


安心するより戸惑った。

そのうちに、名前を呼ばれた。


「おや、子廉殿。間に合って良かった。なかなか危ない所だったね」


 そう明るく声をかけたのは、馬上の夏侯惇あざなは元譲だった。

血に汚れ、かすかに疲労が見えるが、いつもの落ち着いた笑みを浮かべている。


つづく

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