第55話 滎陽・近くて遠い徐将軍

 藪の中に上手く兵士たちを潜ませる事ができた、と思う。

なんせ初めての伏兵なのでよくわからない。

敵軍が来た事を知り、さも混乱して引き返すように見せ各隊をばらけさせた。


……中にはそのまま、本当に逃げてしまった者もいるだろう。


今回は逃げるなとも、戦えとも、強くは言えない事情があった。

三分の二以上が鮑信軍、衛茲軍、他軍の兵士たちだからである。

しかも、合同練習どころか、合図だって合わせていないのだ。


こんな状況で強く命令しても、無視されたり、混乱したり、下手をしたら生意気な上官だと、殺される可能性さえある。

役職だけで、人がついてきたり、尽くしてくれるわけではない。当たり前のことだ。

……ま、逃げたいヤツは逃げればいい。そしてもっといい死に場所を探せば良い。


 敵兵の様子と自軍をも監視するように藪の中をうろつく少女は、思わずギクリとして立ち止まった。


董卓軍の指揮官の巨大な旗が、薄暗い木々の隙間に見えたのである。


「徐」

そう記してある。


徐将軍。

心当たりのない人物だ。


少女は安堵の息をつく。

董卓軍には、黄巾賊討伐で共に戦った皇甫嵩こうほすう朱儁しゅしゅんが在籍しているのだ。

かつての仲間と戦う羽目にならなかっただけでも、だいぶ気持ちが楽になった。


……それにしても徐将軍か。

董卓の直轄の部下だろうか。それならば異民族討伐で戦争慣れしているはずだ。

しかも初戦を任せられる人物。手練れだと考えるべきだろう……。

  

 少女は狩りで獲物を見つけた時のように静かに慎重に、その旗と並行して進んだ。


……どうせムチャするんだし、開始早々、徐将軍の首を狙ってみようかな。

たとえ首を飛ばせなくても大けがを負わせれば、この大軍も混乱、上手くいけば自壊してくれるかもしれない。


 そう閃くと同時に携帯用の弓矢を組み立てて片手に持ち、弦を引き絞る。


「曹将軍、そろそろ避難される準備をされた方が良いかと思います」


突如、背後から声をかけられて、少女はビクッとした。

衛茲えいじから譲り受けた、手練れの女間者だった。


「や、やあ、君は相変わらず気配がないね。

こんな最前線まで来るとは、君こそ危ないよ。斥候はどうした?」


弓を下ろし尋ねる。


「それが、あなたが動き回りますので、どこにいるのかわからないと斥候が困っておりました。

ですので、この子にあなたを探させて、私が代わりにきたのです」


兵士姿をした女間者は、ひざまずいたまま、その子と呼んだ毛並みのよい狼の背中を軽く撫でた。


「そう。それはすまなかったね」

「安全圏になりそうな場所を見つけましたので、ひとまずそこまで避難を」

「いや。私も戦うつもりだ」

「あらまあ。鎧も纏わず戦うとは?」


「まさか。軍服の下に薄いけどなんか硬いの着ているんだよ。

私が鎧を纏うとなると、装甲を薄くしないと重くて動けない。でもそれだと、ほぼ意味がないだろう。だから、自分に合う物を作ったんだ」


「あらまあ、そうだったのですか。私もあなたのお着物の下までは探れませんでしたので知りませんでした」

少女は小さく笑って、そして、真顔になった。


「君こそ、最前線から今すぐに逃げなさい。

とくに女が男と戦うなんてぜったいダメだからね。

同じ人間という種類だが、別生物くらい性能が違う。力では勝てないよ」


「あら、行動と言動が、矛盾していませんか?」


「私は、特殊な訓練をしたし、一撃必殺の一番いい武器を作ったから特別なの。

それがなかったら、私だって速攻で逃げてますよ」


きょとんとしていたが、主の言葉に小さな笑みを返した。


「わかりました。私は戦いません。どうかご安心を。

ただ、情報は集めますし、危なくない程度に援護もします。


影のような私たちにまでご心配をいただき、ありがたく思います。

あなたこそ、どうぞお気をつけて。ご武運をお祈りいたします」


間者は、主人に拱手した。


「こちらこそ、いつもありがとう。必ず、また会おう」 

拱手を返すと、それぞれ音もなく薄暗い藪の中に消えた。


 徐将軍の旗の下は、当然、護衛兵の壁が厚い。

槍の群れの奥に、騎馬隊の馬が見える。

当の徐将軍はどこにいるのか、はっきり確認できない。


少女はふたたび、その旗と並行してひそかに進んでいる。 

そして藪に隠れる自軍の兵士を見つけるたび「相手の動きが止まったら、矢を打ち込めるだけ打ち込むのだ」と、小声で伝えた。


 唐突に、行進が停止した。

よく訓練された軍隊らしく、ざわつきは一切ない。馬の嘶きが響く。


一体、どうしたのか。

この先の空き地に敵軍がいるとの異常事態の報告を受けたのか?

それとも、別の理由か?


 どうでもよかった。

 

少女は唐突に矢を射た。

射た瞬間、すぐにまた矢をつがい、一人で何度も打ち込んでいく。


敵方では仲間が次々と倒れ、騒ぎが起こり始めた。

それが合図となり、周囲からも矢が放たれ、次々と波及していく。


こうして小春の夜は、地獄へと切り替わった。


つづく

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