第46話 陳留・ひとときの平穏

 時にひどい寒さで目が覚めたが、そのたびにどちらかが焚火に薪を足して、暖を保った。やがて朝焼けの光の眩しさで、二人はほとんど同時に目を覚ました。


 まだ寝ぼけ眼の少女は、渡された新しい服を持つと、いそいそと大木の後ろに隠れた。

そして着替え終わると、小さな銅鏡を片手に怒り狂いながら焚火の前に戻ってきた。


「お前っ、この服はなんなのじゃ!女学生の制服ではないかっ。

私にこんな服を渡すなんて、本来ならとんでもない侮辱じゃっ!

それに、もしも町中で急に元のおっさ、じゃない、美青年の姿に戻ったら、超弩級の変態になるだろうがっ!」


 沸き立つ干物汁の小鍋をかき混ぜながら、あくびをしつつ眠い目をした元譲殿は答えた。


「文句言いながらも、ちゃんと着こなして、さすがですね。髪飾りも上手くっつけてますし。


そりゃあ失礼は、百も承知ですよ。

しかし古着屋であなたに合う寸法で男物がなかったのですよねぇ。

だから泣く泣く、その服を選んだのです。


しかし、今は変装のためにその姿の方がいいと思いますよ。

どこから見ても女学生、まさか逃亡者とは思われないでしょう。


それに何を着てても、あなたの気高さは変わりませんよ。

良く似合っていますし、とても可愛らしいです」


「……」

激怒していた少女は、青年の褒め言葉を聞くうち、ムッとしながらも満更でもない様子に変わっていった。


そしてもう一度、携帯用の小さな銅鏡で自分を確認しながらつぶやく。

「そう言われると、そんなに悪くない気もしてきた」

褒められると素直に受け取る所が、この人の良い所の一つだと、元譲殿は小さく頷いたのだった。


 激怒しながら着た女学生の変装だったが、効果は抜群だった。

すれ違いざまに目で追われても笑顔で会釈をすれば、皆もほわっとした笑顔を返してくれるのである。


突然世界が優しくなり、少女は自分が逃亡者という身の上を忘れそうになっていた。


……でも実際、私はもう危険から脱したんじゃないかな?

かくまってもらえるかわからない陳留の知り合いを尋ねるのもやめたし。

ついでに、仕事も官位もなくなったし、家にも帰れないし、あるのは身一つと、限りなく自由な時間だけだ。


……もしかして毎日のんびりお料理したり、狩りをしたり、食用じゃない犬猫を飼って遊んだり、そういう素敵な日々の始まりかも?!


 異様な速さで、緊張感が抜けてきていた。


 そのような中、当面の食べ物や必需品を調達するために陳留(ちんりゅう)という大きな街に寄る事にした。


陳留は古い街だ。

主要城郭都市であるため、戦乱で手酷く破壊された事もある。

だがそのたびに修復され、戦火を逃れた歴史ある建物は街並みに重厚を与えている。

人は多いが、商店、露店街にいるのはほとんどが旅人ばかりである。

よそ者を怪しむという視線はない。

 

 とある大通りの店先で、少女は一人、品物を見ていた。

ふと、肩を叩かれて振り返る。

いつもは、気配を敏感に感じるのだが、今回はまったくそれを察せられなかった。

きっとそれは、品物に気を取られていたからだと、軽い気持ちで振り返る。


 どうせヒマをしてる男が話しかけてきたのだろうと思ったが、そこには、どこにでもいそうな目立たない素朴な女が立っていた。


彼女は、不自然なほど少女の瞳を見つめ、そして、視線を下へと向ける。

それにつられて、少女も少し、視線を下げた。


女の軽く握った手の平が目に入り、それが開くと、少女の目元がわずかに動いた。


小さな紙には、美しい字で自分の名前が書かれていたのだ。


 その瞬間、鼓動が激しく打った。

動揺が顏に出そうになったが抑えた、つもりだか、上手くできたかわからない。


何かを考える間も与えられず、女は手のひらの紙を細い指で器用に裏返した。


 そこには昨晩まだ一人で凍えていた時、かくかくまってほしいと会いに行こうかと悩んでいた人物の名前が書かれていた。


「私たちの主人が」

女は、消え入るような小声でささやいたが、なぜか耳に刺さるようにしっかり聞こえる。

「貴方をの事を大変心配しております。

一目だけでも主人に、お会いしていただけませんでしょうか?」


「すみません、何のことやらわかりませんが……」

 女はさらに少女を強く見つめ、声を潜めた。

それは至近距離の少女にも時々聞こえなくなるほどの、もはや吐息のような声だった。


「私は衛茲(えいじ)殿の影として働いております。

この街と周囲には、衛茲殿があなたを探して、私のような者が数名、放たれております。


今の所、董卓が間者を放っているという情報はありません。

しかし、彼があなたに向けてそれを使えば、あなたは捕まるか、人知れず殺されてしまうでしょう。


官軍のそれは、私たちの比ではなく能力が高い。

私どもの主人は、それを懸念して、あなたを早く、ぜひ保護したいと考えているのです」


 相手の小声を聞き取ろうと目を伏せて集中していた少女は、顏を上げると、即答した。

「わかりました」

そして、笑みというよりはぎこちない、口角をわずかに上げた表情で続けた

「あなたのご主人には、私もぜひお会いしたかったのです。

ただ少し、待っていただけますか?」


 そう言うと同時に、たくさんの買い込んだ荷物を抱えた青年が現れたので、女はフフッと優しく笑った。


 つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る