第45話 中牟・甦る結婚の約束
少女は、目を見開いた。
怒涛の日々ですっかりド忘れていた事を、とんでもない衝撃とともに思い出した。
……まずい!無職になったら結婚するって約束しとったんだわ!こいつ、勉強の覚えは悪いのに、なんでこんなどうでもいい事は異常によく憶えとるんだ、腹立つ。
それにしても、危険だ。早く、誤魔化さないと……。
「あ!あれね。あれは、冗談……」
「えっ?!」
相手の言葉の途中で青年は驚愕の声とともに立ち上がると、燃え盛る焚火がまるでないかのようにそれを踏み砕いて一直線に迫ってきた。
「離れててハッキリ聞こえなかったんですけど?!冗談だって?!もう一回、言ってくれるっ?!」
薪が爆ぜて炎が飛び散り、少女は思わず座ったまま後ずさりした。
「あっ!約束してた!冗談っていうのが冗談だったっ」
まるで巨大生物の襲来におびえるように身をすくませて、少女は慌てて言った。
「わしゃ今とても疲れてて頭が混乱しとるの!つまらん冗談を言っただけじゃっ」
そのとたん、青年の動きがピタリと止まった。
「なんだ、驚いたよ。真剣な約束を誤魔化そうとしたのかと思ってしまったよ。
君にしては、本当につまらない冗談だったね」
普段の穏やかな様子に戻りつつあるが、その背後の崩れた焚火が恐怖の名残として残っている。
「すまなかった……」
……確かに、結婚の約束を冗談でしたと言うのは、悪質過ぎだ。激怒されても仕方ない……。
「ねえ!とりあえず、ほとぼりが冷めるまで、どこか目立たない所に家を作るか買って、隠れて住もうよ、どうっ?」
「え?」
急に何の事を言っているのかわからなかったが、さっそく結婚後の事を言っているだと気づいて、目を見開く。
気が早すぎるだろうがっ!と思ったが、少女はもう、相手に気づかってつっこむ気力もなく、観念したように頭をうな垂れた。
……牢獄から脱出したら、次は元譲殿に捕まるとは、思いもよらんかった……。
「ねえ、聞いてる?それで、落ち着いて暮らせるようになったらだけど。
君の家族とうちの家族も一緒に、ひどいド田舎で暮らせば良くないかな?
たとえば、徐州とか荊州の山奥とか?
この世の喧噪なんてぱっと忘れて、楽しく隠棲するのもいいと思うんだよね」
青年は爽やかに気味が悪いほど具体的な事を言うので、少女はうなった。
「うぅん……」
「あれ、承諾なのか、悩んでるのか、わからない返事だけど?」
そう言われて、少女は相手の様子を気にしながら、慎重に答える。
「君がいろいろと考えてくれるのは、ありがたいし、嬉しいよ。
でも私は、董卓の支配はそう長くは続かないと思っているんだ。
彼に協力しようとする人は少ないし、逆に反感を持つ人は多い。
今は怖がって、表に出ていないだけでね。
何かキッカケがあれば、彼は簡単に失脚だろう。
私は、それを待っているのさ。
そして彼がいなくなれば、また、元の生活に戻るはずだ。
そうしたら、私はまた、この国のために少しでも働きたいと思っているんだ」
「なるほど。君は、今の混乱と、君の無職は一時的なもの、と言いたいのかな?」
少女は表情が打って変わり、笑顔で何度も頷いた。
「そうそうそう!さすが、よくわかってくれたねっ!」
「そっか。じゃあ、董卓が失脚するまで一時的に私と一緒に隠れていればいいんじゃないかな?
さっき、誰かにかくまってもらうつもりと言ってたけど、その人には通報されるかもしれないんだろ?
私ならそんな心配はしなくていいよっ」
「……」
少女は笑顔のまま、目だけ虚無になった。
……こいつほんとにしつこいな。
でも、以前の私も、脈がありそうな女の子にはこんな感じだった気がする。
今さら、恥ずかしくなってきた……。
さらに思う。
……それにしても、こいつの話は下心だけのようで、わりと悪くない気もする。
いや、わりとどころか、確かにそれが一番安全なのかもしれないな。ムカつくけど……。
そして、ぼんやりと答える。
「なるほどね。
君と一緒に暮らして、何も考えないのもいいかもしれないね。
私はもう疲れたよ……」
……そうだ、もう逃げられないなら、受け入れるしかない。
私はすでに五人も奥さんがいて、結婚には慣れてるんだ。
ま、今回は自分が奥さんになるんだよ、ってわけだけど……。
ぐぬぬ、と思わず一度うめいてから、ハッと、何か思いついたように顔を上げた。
「そういえば君の二人の奥さんと子供たちはどうなるのさ?
君が出て行ったきりだと、さすがに激怒するだろうよ。
やっぱり、ちゃんと家族と相談してからの方がいいね」
「ああ、それなら、みんな基本的に私にあまり興味がないから、ちょっと長く留守にしてもたぶん大丈夫だよ。
それに君の事はすでにみんな知ってるし。第三夫人が増えるかもしれないって」
「……あ、そう」
悪あがきも失敗して、また、しょぼんと顔を伏せる。
そして、細君たちはキミに興味がないというより、呆れてるだけでは、とちょっとした腹いせを言いかけたが、自分の細君たちも時々そういう目をする事を思い出して、やめた。
沈黙すると、強い眠気が瞬時に押し寄せてくる。
焚火の暖かさも、薪が爆ぜる音も、炎の美しさも、全てが心地が良い。
「じゃあもう、私は寝るよ。
明日はここから近くにある陳留という街に、一緒に行こうよ。
あとでお金は払うから、そこで新しい服を買っておくれ。
この服は、新しい手配書に書かれるだろうから、まずは着替えたいのだ」
「あっ。それなら着替えを一着持ってきているんだよね」
「やあ、さすが君は気が利くね。じゃあ、明日の朝はそれを着るとするか」
つづく
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