第43話 中牟・本物の追跡者
洛陽。
青年は夜明けと共に起床した。
そして約束していた曹家での用事を済ますと、帝都を出た。
早朝の街道は人が少ない。
馬を思い切り駆けさせる事ができる。
内政が混乱しているせいか主要路さえ整備不良だ。
馬や馬車が開けた穴は放置され、そこに張った氷を踏み抜きひた走る。
人通りが多くなる頃には、早くも馬を潰しかけていた。
訓練された軍馬でもないのに、長距離を走らせればこうなるのは当然だ。
そのような時は、道でも町でも良さそうな馬を持つ者を見つけては交換を頼み、足りない分は金を渡した。
こうして尋常ではない速さで青年は街道を進んでいく。
まるではっきりと目的地を知っているかのような高速移動をしているが、青年はなんの当てもない。
しかしときに人は理由なく確信が持てる時があるものだ。
言葉にも、悪い予感、良い予感、虫の知らせ。胸騒ぎ、勘が働く、などがある。
それよりもっと強烈なもの、そんな感覚が、今は青年を支配している。
このような強い予感は、滅多に降りてくるものではない。
だが、その最中なのだと、青年はなんの根拠もなく思っていた。
やがて日は暮れ、身も凍る漆黒の真夜中となった。
少女は、中牟の牢から助け出され、今は一人闇の中を疾走していた。
走っていても、外気の冷たさが勝り、身体が暖まる事がない。
とくに、耳や鼻、手綱を握る素手には感覚がない。
上がる呼吸は瞬く間に白色に染まっては、夜にかき消える。
追手を恐れて、さらに暗い深い森を通る間道へ入った。
星の位置を頼りに方向を知り、なんとか進む。
……この夜が明ければ、明日の朝からは関所はもっと厳しくなるだろう。
ふとそんな事を思い、恐怖が同時に湧き上がってくる。
……酷い話だがこれからは運以外、頼るものがない。
こんな事で、逃げ切れるのだろうか。
それとも私はもう詰んでるのに、無様にあがいているだけなのだろうか?
目の前も暗い。未来も暗い。気力が萎えるのを感じた。
ふと、自分を逃がしてくれた若い役人の笑顔が脳裏に浮かぶ。
……あの人は、自分の人生を賭けてまで私を逃がしてくれた。
なのに、私は、それに報いることができないのか……。
やがて、馬が疲れた。
それはそうだ。恐怖に追われるように、ずっと走らせてしまったのだから。
……もっと逃げたいけど、馬を休めないと。それに私も暖まらないと体が凍るようだ……。
手綱を引き、馬を降りた。
すると寒いはずなのに、自分が薄く汗をかいている事に気が付いた。冷や汗なのかもしれない。
間道を外れ、森へ入った。たき火ができる空き地を探している。
大木の枝葉で星の光も届かない、夜の森は、黒一色の世界だった。
疲れているからか、夜目もあまり利かない。
馬の足音が木の枝を踏み折る音が時々響くが、もはや気にする余裕がない。
……それにさすがに、こんな森の奥深くには誰も来ないだろう……。
やや広い場所に出て、ようやく歩くのを止めた。
そのとたん急激に冷え込み、歯が小刻みに鳴る。
手綱を結ぼうと、手ごろの木に近づく。
しかし疲労と心労からか足が重く、木の根につまずいて転倒しかけた。
強く手綱を引かれた馬は驚き、軽く暴れた。
慌てて馬の首を撫でつけて、頼むように落ち着かせる。
……こんなわけのわからない場所で馬に逃げられたら、確実に行き倒れてしまう。
なんとか馬を固定して、休ませた。
それから枯葉と枝をいくつか集めると、小さな組木を作った。
剣の鞘の下部を小刀で擦ると火花が飛び散り、何度目かで枯葉に着火する。
小さな赤い光を両手で囲んで、息を吹きかけて炎に育てた。
やがて枝まで燃え出すと、ようやくたき火らしくなった。
それから少女は、すでに寝そべっている馬のそばに移動した。
その安らかな寝顔とぬくもりに寄り添い、一緒に横になる。
馬の鼓動が、耳にこだますると、ようやく安堵して目を閉じた。
……今の状況は確かにひどいが、雨や雪、強風じゃないだけマシだ。
私はまだ、運がいい……。
しかし、ふと、目を開く。
……浅く眠らなきゃいけない。足音や物音が聞こえたら、必ず起きなきゃ……。
そして、耳だけは地面につけておこうと、顏をずらした。
その冷たさに「ひっ」と思わず声を上げたが、またすぐにまぶたは閉じる。
ぷつりと、思考が途切れた。
青年は暗闇の中で、眉をひそめた。
方角が、わからなくなった気がする。
……あくまで、そんな気がするだけで、まだ迷子ではない、と思う……。
相変わらず、根拠なく進んでいた。
こういうわけのわからない感覚に頼っている時は、まるで自分が野生の動物にでもなったような気分になる。
ふと、何かいる、と、勘づいた。
まるで、狩りの最中に感じるような気配だ。
……狩り……どっちが獲物なんだろうか?
そう思ったのも束の間、朧げな空気は吹き飛び、気配が入れ替わる。
殺気だった。
それも、今までに感じた事のない、凄まじいものだ。
人を一撃で死に至らしめる大きな熊や虎、あるいは、武器を構えた人間……?
いや。なにか違う。
まるで神域に触れたような、森のあやかしだとか?
……いや、それとも違うような。これはまるで……。
恐怖を通り越して、畏怖を感じた。
だが奇妙な事に、思わず立ち止まった足が、再び、静かに踏み出していた。
おい。
と、もう一人の、理性ある自分が咎める。
その理性の警告に同意していながらも、さらに危険へ近づこうとする自分の行動が理解できない。
だがそれでも奇妙な確信を持って、足は進む。
まるで、魂は集うべき場所を知っているかのように。
つづく
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