第38話 洛陽・心優しき本物の追跡者

 少し時間を巻き戻す。

それは、少女が家を出た日の夕刻の出来事である。

洛陽にある館は、主が出て行ったとたん不安のどん底へ落ち込んでいた。

  

 五名の細君たちを始め子供たちは隠れるように部屋の片隅に集まり、そして一言も発する事はない。

時々、囲炉裏の炎と薪が爆ぜる音を聞きながら、無意味な時間が過ぎる恐怖に身を縮ませている。

幼子たちがじゃれて小さな声を上げるが、大人は引きつる笑顔を向けるだけである。


「こんにちはっ!お久しぶりです。

野菜がたくさん収穫できたので、持ってきましたよっ。 

かぼちゃと芋など、日持ちするものばかりだから……って。

わ、なにこれ?皆さん、どうされたんです?」


使用人に通された夏侯惇元譲は、にこやかに部屋に登場して仰天した。


いつもはうるさいほどワイワイしている曹操の細君たちが、いまや全員、幽霊のようにドンヨリしているのだ。

彼女たちのこんな沈んでいる様子を見た事がない。


「はっ!これは元譲殿、良い所に!」

「もしかして、孟徳殿の身に何か?」

第一夫人と青年が声を発したのは、ほぼ同時であった。


 全ての事情を聞いた青年は取って返すように立ち上がりかけたが、第一夫人は彼の袖を引いてすがったので二人はどちゃっと倒れ込んだ。


「ちょ、ちょ、ちょっと!?急にどこへ行くつもりですの?元譲殿っ。

まさかっあの人を追おうつもり?!か弱い私たちを置いて?


あの人はいざとなれば悪知恵も働くし、必要ならばどんな卑怯な手も使える人です。

でも私たちはか弱くて、誰かを頼るしかない、不安いっぱいの弱々しい女子供たちですっ。


それにしても孟徳殿は、袁術さまに私たちの世話を頼んである、と言っていたけど、袁術の使者も誰もさっぱり来ないのですわっ。どうなってるのかしら?!

それも大変困っているのですっ。


ねえ、ここまで説明されたら、あなただってどちらを守らないといけないか、わかるでしょう?」

「孟徳殿です」

「はぁ?!」


「ちょちょちょっとっ!落ち着いて下さいな、お姉さま。

非常時でも、旦那様でもない殿方に気安くお触りなるなんて、お姉さまらしくありませんわ」


そう第二夫人に言われて、第一夫人はハッとして彼の袖を離し、身を起こした。


「すみません。つい不安に駆られて、幼馴染とはいえ馴れ馴れしくしてしまいましたわ……」

「いえ、丁家のお嬢様に圧し掛かられるなんて、光栄の極みですよ」

第一夫人は白い陶器のような肌を耳まで赤くして、隠れるように身を引いた。


「元譲殿」

代わりに、第二夫人が恐る恐る声をかける。


「お姉さまは、私たち全員を代表して、お願いと不安を言って下さいましたの。

私たち、今、本当にとても恐ろしくて……ぜひ一晩だけでも泊まって行って下さいませんか?

そうしていただけると、私たち全員、ホッとできて、嬉しいのですけれど。


それに元譲さまは、譙県から洛陽まで長旅でお疲れでしょう?

もう夕暮れなのですし、夜にあてなく探すなんて、無謀ではありませんか?

ぜひ朝まで、ゆっくりして行ってくださいな。

……だめ、ですか?」


 本当は懇願したいのだろうが、それを抑えて、小さな声で付け加える。

その後ろには、涙を溜めた四人の細君たちと、彼女らの様子を心配そうに見ている子供たちがいた。


……たしかにこちらも放っておけないかも……。


「話は、わかりました」

「まあっ嬉しいわ!私たちとずっと一緒にいて下さるのね?」

「今は、います。あなた方の不安を取り除けば、私はすぐにでも、ここを出たいと思っています。


先ほど丁夫人が言っていたお話では、孟徳殿には、袁術殿を頼るように言われたのですよね。

袁術から使いがこないのは、こちらから、まだその連絡を出していないのでは?


とりあえず、私がそれを手配しましょう。

そして袁術殿の所から誰か来てもらったら、交代で私はここを出ます。


その使者に泊まってもらうか、夜中ですが袁術の館に移動するかしたら、それで安心でしょう?

どうですか?」


「えっ?そんなのイヤですわっ」

「これから夜なのに、見知らぬ袁術の使いの男の人と突然一緒にいるなんて、逆に怖いのですけどっ」


いつものごとくワーワーと細君たちが騒ぎ出したので、元譲殿はキョトンとした。

言われてみれば確かに、知らない男と一晩過ごすなんて男の自分でも怖かった。


「わ、わかりました。では、私は明日の夜明けまでいますよ。


とにかく今は、袁術殿に連絡しましょう。

夜明けに、あなた方を迎えくるように伝えます。

どうです?これで大丈夫ですか?


それと明日、袁術の館に避難しても、宮廷の使者はあなた方を追って、孟徳殿の事を聞きに来るでしょう。

そのような対応も、すべて、袁術に任せたらいい。


袁術は逃亡した袁紹と違い、董卓と今でも上手く付き合っていると聞いた事がある。

そもそも名家の袁家には董卓も簡単には手は出せませんから、彼のもとにいればひとまずは安全でしょう」


その言葉に、細君たちは明るい笑顔を見せた。


「ありがとうございますっ、元譲殿っ」

「頼りになりますわっ」

先ほどのどんよりした雰囲気が消えて、唐突に明るくなる。


「心から感謝いたしますわ元譲殿。

私、今から袁術殿へのお願いの手紙を書きます」


第一夫人が控え目に、恥ずかしそうに声をかけた。


「それがいいでしょう。不安で動揺して、忘れていたのでしょう。

それに文章を書く事は、多少気分転換にもなりますよ」

そう穏やかに返答されると、夫人はかすかに目を伏せた。


「あ、あの元譲殿、さきほどは、すっかり取り乱してしまってごめんなさいね。

もっとちゃんとしたお願いの仕方があったのに、恥ずかしい事です……」


青年は優しく、そしてどこか懐かしむような目で彼女を見た。

「どうぞお気になさらず。あなたも私も、小さい頃から変わらないなぁと思ったくらいですよ」

二人は見合うと、今の状況をひと時忘れたように、素直に小さく笑いあった。


つづく

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