逃亡中
第37話 成皋・呂伯奢一家惨殺事件と戯れ言
出仕願いの話をされて、速攻で逃げ出した。
だからまだ、逃亡者としての手配書は出回ってはいない。
それは早くても明日の朝、宮廷に出向く約束の時間が過ぎてから発行されるだろう。
なので今は堂々と街道を進み、できるだけ距離を稼いでいた。
やがて日が暮れると、寒さで息が白く染まり始めた。
馬も疲れが見えているので、暗くなる前に、成皋(せいこう)という大きな街で休む事に決めた。
成皋は要塞化された街で、有事の際は洛陽を守る砦の一つと変わる。
黄巾賊が猛威を振るった時は、ここにも官軍の兵士が常駐したが、今はもうその時の緊張感は残っていない。
多くの旅人が集まる宿場町に戻っている。
珍しい方言も聞こえる雑踏は、心細くなりがちな心を紛らわせてくれた。
少女と、その父に扮した使用人は宿を決めた後、近くの大衆食堂へ赴いた。
楽しそうに酒盛りをしている男たちや、子供がはしゃぐ家族連れの中で、静かな二人はまるで置物のように目立たなかった。
羊肉と野菜の鍋はとても熱く煮られており、食すと、冷えた身体を内側から温めてくれた。
ゆっくり味わい、満腹になると、その余韻を持て余すように少女は頬杖をつく。
連れの父役の男も食事を止めようとしたが、少食の少女は彼にも満腹になるまで食べるように促した。
今度はいつゆっくり腹ごしらえできるかわからないのだから、と……。
「実はこの街には、呂伯奢(ろはくしゃ)という父の知り合いがいたのだ」
ふと少女が話し出したので、食事中の父役の付き人の男は咀嚼しながら無言でうなずく。
「私も、何度か会って親しくしてもらった。
まあ、この姿になってからは会った事はなかったけど。
彼は五人の子供がいる富豪だったが、最近、一族と食客まで惨殺されてしまったのだ」
「えっ、それは、お気の毒に……」
「そう。お気の毒だった。
犯人は捕まっていないが、それらしき人物はいる。
だが、この事件の詳細を聞いた時、私はすこし違和感を感じた」
相手が食べながらうなずくのを見て、少女はのんびりと話す。
「この事件の違和感。
それは事件内容が、まるでその場で誰かが目撃していたように具体的かつ詳細に伝わっている事だ。
状況はもちろん、犯人の動機、心情、発言さえ、事細かに語られている。
だが思い出してほしい。
被害者である呂伯奢家は全員、家族と食客の合計八名、全員が惨殺されている。
犯人は誰も捕まっていない。
では、一体だれが、その事件の生々しい詳細を、見ていたように語ったのだろうか」
「あっ……」
父役はわずかに大きく目を開いて少女を見た。
少女は温かい白湯を飲んで口の中を清めると、また話始める。
「もしかしたら、犯人には共犯者がいて、そいつが話したのかもしれない。
仲間割れをして、主犯格の人物を吊るし上げるため、事件の真相を第三者に話す。
だがそれは同時に、自分自身の凶悪犯罪共犯の自白であり、死罪に繋がる行為だ。
たとえ死罪を免れたとしても、犯罪者同士の裏切りは報復の可能性が大きい。
どちらにしても、自分の死を賭けた自白。
と、ここまで話してなんだが、この仮定はない。というか、違う。
なぜなら、仲間が自白した、という記録はないからだ。
事件の生々しい詳細は、加害者側からでた話ではないという事。
つまり、被害者側は全員死亡、加害者側は自白した者はいない。
では一体、この事件の犯人の心情、動機、発言さえ事細かに語った人物とは、一体、誰なのだろうか」
父役は戸惑うような、神妙な顔つきで頷いた。
「たしかに、奇妙な話ですね。
事件というより、状況の詳細、証言の出どころが、奇妙だ……」
少女は思いを巡らすように、目を細めた。
「呂伯奢一家惨殺事件の真相は、もうわからない。
だけど、色々と想像をかきたてられる事件だよ。
そして、とてもよくできたウワサ話だとも、感心してしまうのだ」
「ウ、ウワサ話?」
やや目を見開く。
少女はやや物憂げに、父役の男を見た。
「質問に質問で返すのは悪いけど、逆に、どうしてこの事件の詳細がウワサではないと思うのかな?」
「たとえば犯人が良心の呵責を感じて、ひそかに誰かに告白したかもしれません。
あるいは、事件の真相をどうしても話さねばならない事情があったのかもしれません。
それが今、世間で広まっているのかも」
少女はふふっと笑みを浮かべた。
「事件の詳細によれば、犯人は保身のために一家を惨殺したらしい。
そんな図太い人間が、良心の呵責で自白するかな。
あるいは、良心が傷んだのなら、なぜ自首して罪を償っていないのだろうか?
あるいは、良心の呵責以外に話さねばならない事情があったとして。
だとしても、自分の悪い行いを素直に、いや、自慢でもするかのように状況や心情、発言まで、事細かに語れるものだろうか?
たとえば君だって一番後ろめたい思い出を事細かく、誰かに話せるものなのか?」
「いや、無理ですね。話すとしても詳細には話せません。
ちょっと思い出すのもイヤなものです。
なるほど、幼い頃の後味の悪い悪戯でもこうなのですから、殺人など軽々しく口にできるものではないでしょう。……今さらですが、当然と言えば当然の心理かもしれませんが。
結局、袋小路に入ってしまったようだ。
ほんとうに、この事件を生々しいほど詳細を語った人物とは一体、誰なのでしょう……」
「そう、結局、そこに戻るのさ。この話は堂々巡りになる。
だから突き抜けて、考えるしかない。
その事件の詳細は、本当に事件の関係者が語ったのか、と」
父役の男は「うーむ」と再びうめいた。
「ウワサ話、ですか……」
少女は、ふふっと小さく笑った。
「皆や自分が、聞きたい話や信じたい話が、いつしか強い実体感を持ち始める事がある。
あの人ならこう言うだろう。あの人ならやりかねない。
そういう想像、錯覚、虚構が、真実に代わる存在ほどに成長し、さらに現実を脅かすのだから、ウワサやウソというものは、決して馬鹿にできない。
まあ、今、私が推測したこの話だって、想像、妄想、いわばウワサの領域だけどね。
董卓だって、この技を巧みに軍事に使った。
自分の軍隊を何度も洛陽に出入りさせ、短期間に大軍が押し寄せたように見せた。
私も含め、皆、彼の偽りの大軍を恐れて、反抗できなくなった。
あの時、董卓が作った虚構は、完璧に現実を操っていたんだ。
だがしかし、もうこのたぐいの話を考えるのは止めよう。
自分の認識も、知っている歴史も、現在の出来事も、幻が混じっているのではと妙な気持ちになってくるからね」
父役の男は、まるで化かさたような顏をしていたが、思い出したようにまばたきをした。そして、現実に戻ったように、よく味のしみ込んだ鍋の汁を一口、飲んだ。
唐突に、少女はふふっと笑ったので、男は驚いた。
「どうしたのです?一体何が、おかしいのですか?」
相手は少しだけ白い歯を見せ、ちょっとした悪戯を思いついたような笑顔で答えた。
「私もいつかウソやウワサを上手く操ってみたいなあと、思っただけだよ」
翌朝は夜明けと共に宿を出て、道中、昨日買っておいた食材で朝食にした。
早朝は朝日が出ていても、底冷えがひどく、動いていても寒気で震える。
やがて陽も高くなり街道に人が往来し始めると、少女の顏は曇った。
そして父役の共の男に言う。
「そろそろ、間道を行こう。
街道は、官吏が要所で中継ぎして走るから、手配書はもう各関所に回っているだろう。街道の警戒も厳しくなるかもしれない。
次の関所では、検問も注意しないといけない。
私たちは、もっと上手く親子になりきらないとね」
お共の男は、緊張した面持ちでうなずいた。
少女は、自分の気持ちと裏腹に、からりと晴れた冬の空を見上げた。
……それにしても、うちの細君たちは、上手く袁術の元に避難できたのだろうか。
それが、心配だ……。
つづく
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