第36話 洛陽・董卓殿と働きますか?

 冬。

火鉢の前で少女はいつの間にかうたた寝をしていた。

華奢な手には読みかけの竹簡が乗っている。


扉ごしに使用人に声をかけられ、目を覚ました。

使用人は部屋に入ると、主人に静かに伝えた。


「孟徳さま。朝廷から、お使いの方がいらっしゃいました。

客間にお通ししたのですが、お会いになられますか?」


その言葉に、主人はまるで熱い鉄にでも触れたように大きく身を揺らし、呆然として瞳を大きく見開いた。


「だ、大丈夫ですか?」

見たこともない相手の動揺に、使用人は思わず声をかけた。

「だ、大丈夫だ。行くよ……」

「はい」


 客間は、急な客人のために点けた火鉢の暖がまったく広がっておらず、冷たい空気が肌を刺す。

まるで使者を拒絶したい自分の心が反映しているかのようだ、と思いつつ、少女は入室した。


 小奇麗な制服の宮廷の使者は、熱いお茶の入った茶碗を両手で包んでいた。

この家の主人の姿を見ると立ち上がり、拱手した。

少女も拱手を返し、二人は座った。

 

「この寒い中お越しただいて恐縮いたします。

このような冷えた部屋でお迎えして、申し訳ありません。

何でしたら、客間ではありませんが、暖かい部屋に移動しますか?」


「いえいえ。こちらこそ事前に連絡せず、突然訪問して申し訳ありません。

長居はするつもりはありませんので、ここでお話ししましょう」


「わかりました。して、今日はいかがされましたか?」


顏の強ばりは寒さのせいなのか、拒否感なのか、自分でもわからない。


「董相国が、あなたに驍騎将軍を任せたいとの事で、今日は尋ねてきたのです。

どうでしょうか?お受けしていただけますか?」


「絶対イヤですっ!!」


と、言えるわけがなく、笑顔で二つ返事をすると、穏やかに使者を送り返した。


 使者が家を出たとたん、少女は自分の部屋に駆け込んだ。

そして、このような時の為に用意していた地味な町娘の旅衣装に着替えをすると、次は細君たちに別れの挨拶をするためにまた駆けだした。


「おいっ君たちっ」

暖房費節約のために一部屋に集まっていた家族たちは、慌てる主人の奇行に驚いた。そして若干めんどくさそうな目を向けたり、あるいは興味津々な表情を浮かべて注目する。


「すまないが私は今から逃げますっ!

董卓に仕官を頼まれたけど、死んでもイヤだから、逃げる事にしたのだ。

こういう時のために前から言っていたが、君たちはここに残って、袁術を頼りにして、しばらく頑張りなさいよ」


「は?孟徳さま、どこに行かれますの?」

「あらーその服、女の子の服じゃないですかっ。それも似合ってますわね!」

「せっかくだから、口紅くらい塗っていかれてはいかがでしょうか?」

「その服の色には、私が今着けてる髪飾りが似合うと思います。こちらへいらして」

「今は極寒です。毛皮の上着を着て行かれては?」


「ちょっと、一斉にワーワー言うのはやめて。というか、話を聞いてたか?

ま、私の逃亡が失敗して、君たちも連座になったら、その時は本当にすみません。

来世ではきっと幸せにするよ!」


 奥さんたちは一気に軽蔑の目になり、少女をじとっと見つめた。

「は?指名手配ってなに?あなたってほんと、ろくなことしないわ」

「連座ですから、一家惨殺とか被害者多めの殺人事件でしょうか?」

「えー。孟徳さまなら完全犯罪をされると思っていたのに、私、がっかりです……」


想像の出来事で非難される中、少女は髪飾りをつけられたり、口紅を塗られたりしながら口を開いた。


「全然違うし、君たちがまったく私の話を聞いてなかったというのがよくわかったよ。


さっき朝廷からの使者が来て、董卓から部下になれって話がきたけど、私は絶対にイヤだから今から逃げるだけです。

人は殺しとらんし、やる時は、完全犯罪を目指すよ。


それにしても董卓め、あんな奴、どうせすぐに失脚すると思って息をひそめて暮らしていたのだが。

残念ながら、あいつは私の事を思い出してしまったようだ」


「そうでしたか。

ですが、逃げるなんて、明らかさまに反抗的で危険じゃありません?

とりあえず出仕して、適当に働くのはダメですの?

今や贅沢を尽くしブタのような董卓さまの元で、家畜の安寧を得つつ失脚を待つというのは?」


少女はその提案に強く頭を振った。

「あいつの部下になるのは、絶対、イヤじゃ。

なんせ私は、あいつと初めて会った時に大勢の前で全裸にされたという恥ずかしい思い出がある。

それに加えて、さらにイヤな思い出もある。


最近、偶然、温(おん)氏の庭で董卓とその養子の呂布に会ってしまったのだ。

私はもちろん、挨拶をしたよ。


でも董卓はえらそうに、目さえ合わせず、私の存在を完全無視したのだっ。

それで、元々嫌いだったけど、完全に大っ嫌いになったのじゃっ」


「……まあ、挨拶は大事ですわね……」


「それに今や、権力を振りかざし帝をないがしろにして、世を乱している董卓に協力なんてしたくない。

宮廷内でも人を馬鹿にし、殴り、怒鳴り、殺し、宮女には部下も一緒になって乱暴をしてるそうだぞ。


私だって、こんな小娘の姿でノコノコ出勤したら、玄関入ってすぐ何をされるかわからんっ。


とにかく、明日、出仕しますって嘘ついたから、逃げる猶予は半日ほどなのじゃ。

逃げ先は、君たちには言わないでおく。

君たちも、自然に、答えられない方がいいだろうし」


皆、急に無言になると、寂し気に目を伏せた。


「万が一の時のお話は聞いていましたが、いざそうなると、とても不安になってきました」

ぽつりと言われて、少女は神妙な顔でうなずいた。


「その気持ちはよくわかる。

でも、私と一緒にいる方が危険だからね。

私にはいずれ、必ず手配や追手がかけられるだろう。


君たちの事は、袁紹の弟の袁術に保護を頼んであるのだ。

袁紹は董卓から逃げても、罪に問われなかったのは知っているだろう?


董卓は、名家の袁家を特別扱いしている。

だから、袁術もそのはずさ。

彼のもとにいるかぎり、君たちは安全だ。


私がどこかに逃げきれたら、必ず君たちを呼び寄せるから、それまでちょっと待っててよ」

そう言われると納得するしかなく、五人の奥さんたちもうなずいた。


 一人で逃げようとする少女に、逆にそれは不自然では、という意見が出た。

壮年の男の使用人が一人、付き添う事となった。

親子を装う提案をすると、壮年の男は最初畏れ多いと非常に恐縮したが、承知して急いで旅支度をした。

 

偽りではあるが、父上と呼んだ人が優しい笑顔で返事をしたので、少女はついドギマギしてしまった。

しかしそんな感傷にふけっている場合ではないと、ひそかに自分を戒めた。


つづく

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