第36話 洛陽・とある上司の逃亡無職

 董卓とうたく字は仲穎ちゅうえいという男が首都洛陽に入城したとたん、電撃的にこの国は激変してしまった。

「洛陽の住人は平和ボケしている」とひそかに周囲を小馬鹿にしていた人々は、自分自身もその一人だったのだと今さら気づいたが、もう手遅れだった。


 あの夏の日。

帝を保護したあと董卓軍が洛陽に侵入する事は、実は多くの者が予感していた。

だがそのような非常事態が起こっても、司隷校尉の袁紹が取り締まり、最後は力づくで追い出すだろうと、皆、思っていた。

袁紹は、いざという時は宦官を皆殺しにするような苛烈な男なのだ。

きっと彼が何とかしてくれるはずだ……と。


 しかし洛陽に入城する際、董卓は一計、施したのだ。

夜、ひそかに自分の軍隊を外に出し、昼間、洛陽の四方の門から入城させる事を何度か繰り返した。そして、後発の大軍が到着している、と、ウワサを流した。


その真偽がわからぬ間、袁紹をはじめ誰もが相手の軍事力を恐れて様子見に徹した。

そしてそれがハッタリだったとわかった時には、すでに董卓は帝の恩人として、朝廷に深く侵入していた。


 袁紹は、鮑信(ほうしん)という人物から「董卓を今すぐに追い出さないと、大変な事になります」と進言された。だが、彼はなんだかんだでなにもしなかった。


その間にも董卓は、今は亡き元肉屋大将軍の何進(かしん)その血族の元肉屋車騎将軍の何苗(かびょう)の軍隊を吸収した。


さらに洛陽の警備を担当していた執金吾の丁原を、彼の養子とはいえ息子の呂布に殺害させ、彼の軍も吸収した。


そして「雨が長く降らない」という理由で、この国の最高位の一つである三公の司空を免職にして着任し、さらに同じく三公の太尉へと昇った。


 太尉は、軍事を司る最高責任者だ。

こうして、董卓はこの国の軍隊を掌握してしまったのである。



 ある日の事。

彼は、今や自分より下位となった袁司隷校尉に相談した。

「今の少帝を廃して、その弟の陳留王を天子にしたい」と。


その衝撃的内容に、袁紹は心臓が爆発するかと思うほど驚愕した。


……ほんの数日前まで辺境のヒラ役人兼軍人、いわば雑魚中の雑魚だったヤツが、

この国の頂点である帝を、好き勝手しようとは……。


 まるで自分が、頭カラッポの子供が遊ぶデタラメのお遊戯の中に放り込まれたような気がした。

現実と悪夢の境目が消えたかのようだ。眩暈がする。


 しかし袁司隷校尉は、老若男女にもれなく魅力的だと褒められる鮮やかな笑顔を浮かべると、爽やかに答えた。


「董太尉、それは大変、素晴らしいお望みですね。

ですが、とてもとても、重大な望みです。

私の叔父である太傅(たいふ・帝の師)である袁隗にも、私から相談してみます」


「ふむ。帝を変え、我らの思う政治を行う事は、この国を良くするための処置の一つだと私は考えておる。

この国をここまで荒廃させた一族には、これくらいしか利用価値がない」


袁紹は、何も答えなかった。

そして宮廷を後にすると、そのまま洛陽を出て、冀州へ逃亡した。


「えっ!あの袁司隷校尉が、まさか逃亡、無職になるとはっ!」

と、少女は気の毒そうに満面の笑みを浮かべた。

しかしすぐに董卓の気遣いから、彼は無職にも指名手配にならず、さらには渤海太守という職まで得たと耳にする。

……え。あの董卓まで、名家は特別扱いかよ。暴君らしくないぞ。

 

 そして数日後、董卓は自分の望み通り、今の帝を廃し、新しい帝を即位させる。


新しい帝は、献帝と呼ばれる事になった。


電光石火。これらすべて、夏から秋、たったひと月ほどの出来事である。


兵は速さを尊ぶ、とは兵法書の一説だが、彼はそれを戦場だけでなく朝廷でも使い、見事に望みを残さず達成したのである。


その勢いたるや地上に転がる奇跡の星を手に入れた無敵状態である。


 そしてこの日。

決して誰も、その疑問を口には出さないが、この日。

冷たい風が吹き始めた以外は、昨日とあまり変わらない、秋晴れの日。


この日、漢王室の秩序は崩れ果て、人々はまるで自分自身が破壊されたような衝撃の中で、自分の心にそっと尋ねたのだった。


「おや?もしかして今日この日、漢王室は終わってしまったのではないのか?」

と……。


 帝が、途中で変わる事、それは有り得ない事ではない。

しかしそれは、国民も納得できる理由や事情があり、朝廷の決議と規則によって正式な手続きを経て、廃位、即位するのである。


先月まで、地方で働いていた役人が勝手に変えていいわけがない。

しかし、いとも簡単に、変えてしまった。


朝廷の伝統的手続きで皇帝となった第十三代皇帝、少帝弁は廃され、弘農王に封じられた。

元地方の役人だった董卓によって、第十四代皇帝、献帝が擁立された。

…………。 

……。


力さえあれば、こんな田舎者にここまで好き勝手させはしなかったものを……。

力さえあれば、こんなにも自分の望むまま限界なく好き勝手ができるのだ……。


 今や董卓は、相国、という三公以上の伝説のような特別最高位についていた。

幼い新帝の真横に立ち、誰よりも高い場所からすべてを見下ろす彼を見上げ、それぞれの思いが目覚め始める。


……。


そしてこのような現実を冷めた目で見続けるのは、歴史を知る者たちだった。

……帝の生殺与奪の権が誰かに握られるのはよくある話だ。それがまさか目の前で起こるとは。

つまりまた歴史は繰り返そうとしてるのだ。

また争いと混乱が地上で這いずり回ろうと、準備を始めたのだ。

人の進化は平穏ではなく、いつも殺戮へと向かうのは不思議である。


つづく

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