第32話 洛陽・董卓

 漆黒の中を馬は疾走している。

人間でも夜に走るのは恐ろしいのに勇気のある馬だ。

良い軍人のように良い軍馬も心構えが違うのだろう。


 風切り音と馬蹄の響きに交じり、どこからかも他の蹄音や人のざわつきがかすかに耳に入る。

馬と主人もそれを敏感に聞き捕らえては方向修正をする。

周囲が見えなければ耳で察し、ぶつからないように走るしかない。

そしてこの音たちは、目的地への案内人でもある。

この日この真夜中に、皆が目指している場所はただ一つしかない。


 馬の跳ね方が変わった。

草原からあぜ道に入ったのだ。

滑らないように速度を落として進む。

すぐにも松明を持つ人の姿や、その炎に照らされる家屋が見え始めた。


 村の入り口で少女は手綱を大きく引き、馬を止めた。

とたんに馬体から大粒の汗が流れ始める。労をねぎらうように少女はその長い首を軍服の袖で拭いながら共に歩いた。

 

 北邙山(ほくぼうざん)近くにある、この小さな村は、すでに小平津の町以上の熱気に包まれている。

異様なのは、例の武装した他州の兵士が大量にいる事だ。嫌な予感しかない。

今までも彼らは何度か目にしたが、その時は多くて十数人だった

だがここでは彼らの方が多い。

そうなると、官軍の自分たちの方がよそ者で、しかも、まるで敵地にでも紛れ込んだような錯覚すら覚える。


 やがて、明らかに気配の違う人だかりを見つけた。

かがり火が焚かれてはいるが、あまりに人が多くて、全体を照らすには足りていない。

ひざまずいているすべての軍人や役人たちは、ほとんどが影に覆われている。 

この大人数が頭を下げる相手は……決まっている。


 官軍兵士に馬を預けると、少女もひざをついて身を屈ませた。

その状態でそろそろと人の合間を器用に抜けて、一際明るい方向へ進む。


 やがて、その玉体を見た。


反射的に顔を伏せ、そして思わず、ホッと胸をなでおろす。

離れてはいるが、その場で完全に膝をつくと、深く頭を下げて拝礼し、声をかける。


「陛下っ、ご無事で何よりです。西園八校尉、典軍校尉の曹操です」

……。

へんじがない……。


「操、大儀であった。顔を上げるがいい」

凛とした子供の声に仰ぎ見ると、帝と同じ松明の灯りの中にいる、もう一人の人物と視線があった。

その幼さに似合わず、ひどく冷めた目をしてこちらを見下げていた。


……天子の弟、陳留王、か。垣間見た事は何度かあったが、声は初めて聞いた……。

その冷静な対応と威厳に、少女は思わず、再び、深く頭を下げた。

……利発という噂は、本当だ。


「曹典軍校尉、早々に駆け付けていただき、感謝いたしますっ。

わたくしっ閔貢(びんこう)と申しますっ」


 突然、後ろから話しかけられてふり返った。

体格も見事な官軍の武人が、彼もひざまづいたまま人を押し分けてムンムンと近づいてくる。

その鎧には、帝を連れ出した宦官を成敗した際の返り血の跡がまだ生々しく少し残っていた。


「すみません、ぶしつけな事を聞きますが、典軍校尉は軍勢を何名ほど率いてきてくださったのですかっ?」

「え?」

ぎくっとして少女は思わず、閔貢殿から目をそらした。


「あ。えっと、急いでおりましたゆえ今はわたくし、一名であります……」

「はぁ?!うそでしょ?!」

閔貢は露骨に顔をしかめた。


「なんとっ、皆、聞いたかっ!」

突然、天子と陳留王の背後から、けたたましい大音声が発せられ、少女を始め、皆、ギクリと身を揺らした。


ぬうっと、高貴な少年たちのすぐ真後ろの暗闇から、大きな男の顏が現れる。


「天子をお迎えするのに、お一人で来たとは。

それも、武装もせずに軍服姿で。

いやはや。閔貢殿を始め都の軍というのはだいぶ平和ボケ、いや、穏やかでいらっしゃいますな。


こんな時に万が一、他州の軍勢が皇帝陛下を奪いに来たらどうするのです?

あなた達など一瞬で八つ裂きにされて、陛下は拐われてしまいますぞ」


 目が慣れてくると、大声を発し続ける人物の巨体が浮かび上がってくる。

鎧は見た事のない異国風の意匠で、装甲はいくつか重なりとても重厚だ。

並みの人間ではその重量で纏う事さえできないだろう。


「それに、西園八校尉といえば。

帝を護る近衛軍のくせに、この混乱を引き起こした軍ではありませんか。


陛下を危険に晒した張本人が、よくもまあノコノコと人前に出てこれたものですな。

しかも、お一人で。

やはり貴方たちのような頼りない方々には陛下をお任せする事はできませんっ!」


 少女は状況がよくわからずポカーンとして相手の言葉を聞いていた。

その後ろでは、閔貢がぶるぶると怒りで震えながら、口を開いた。


「くっ。言いたい事を言いおって、董(とう)并州牧っ」

悔しさに顔を歪めて続ける。


「あなたも含めて我々は皆、天子の軍人同士なのですぞっ。

つまり人数など関係なく、官位が重要なのです。

官位はっ、今きた曹典軍校尉が一番高いのですっ!


ですから我らは即刻、曹典軍校尉の指揮下に入り、洛陽へのご帰還をお護りするのが筋でしょうがっ」


……董(とう)并州牧。あいつが董卓なのか……。

少女は闇に浮かんでいるような巨大な顏の男をまじまじと見つめた。


……なんだか奇怪なやつが、帝にとりついてしまったな……。


 「黙りたまえ閔貢(びんこう)殿」

董卓は興奮した相手を諫めるように厳粛に言った。


「見よ、可哀そうに天子も諸君らでは不安で、夏なのに冬のようにガタガタ震えていらっしゃる。

先ほどから言っているが、我らの軍勢が、人数も多く完全武装もしておる。

今すぐ、厳重に陛下を保護して、洛陽の宮廷まで送り届ける事ができるのだ」


 その言葉に、少女は一瞬息が止まった。

……な、なるほど。こいつは帝の護衛と称して、自分の軍勢を洛陽に入れようとしているんだ。

しかしなぜ一体そんな事を?高額の報奨金の交渉か、高い官位か?


 それとも、董卓がぶっ飛んだヤツならば。

……このまま帝を人質にして、朝廷を乗っ取る、とか?


つづく

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