第23話 譙県・結婚の約束
それから青年は働きが悪くなったので、少女はそれを補うように一緒に書物を並べだした。
「役人の仕事って、そんなに楽しいのかい?」
突然問われて、少女は目をパチクリとさせた。
そして何かを思い出したように表情を曇らせると、ため息をついた。
「なんだよ急に。役人なんて、べつに楽しくないよ」
相手を見ず、作業しながら淡々と答える。
「当たり前だけど、私が死ぬ気で頑張ってみても、世の中は変わらないし……。
それどころか、賄賂を取り締まれば逆恨みされて、家族まで面倒に巻き込まれそうになるし。悪い事が日常になっている場所では、それを正そうとする方が、悪人扱いされるのさ。
なんだかもう……今は、疲れてるんだ」
そして、ふと、相手を見上げた。
青年も視線を感じ、少女を見つめた。
「すまないね、うっかり愚痴を言ってしまった。
ま、役人が楽しかったら、ここには戻ってきてないって事さ」
「でも、そんな所に、また戻るんつもりなんだろう?なぜ?
あなたなら、もう一生働かなくても生きていけるだろうに、どうしてなのさ?」
「なぜなぜどうして?って。
君は小さい頃からそうやって、いろいろと私に聞いてたね。
なんだか懐かしい気持ちになったよ」
少女は軽く微笑んだ後、また作業に戻り、話始めた。
「私には働かずに家族を養っていけるほどのお金がないのさ。
生活水準を落とせばいいのかもしれないけど、家族にひもじい思いはさせたくない。
金を唸るほど持っている父上に頼れば援助してもらえるだろうけど、それは、余程な場合じゃないと、私はするつもりはないんだ。
ま、働きたい理由はそれだけじゃないけど……」
役人として出世して、世の中を少しでも良くしたい、だなんて。
なんだか夢見がちな子供の夢みたいで、恥ずかしくて言えない……。
「ま、とにかく私は家族や家の手伝いをしてる者を養うためにも、働かないといけないんだ。
……そりゃ今は、休んでるけど」
「なんだ、じゃあ、みんな養えれば役人をやめてもいいって事なんだね?」
青年はやけに丁寧に問うた。
「まあ、基本的には、そうかもね」
「じゃあ、私と結婚したら、働かなくても済むんじゃない?
うちはお金もあるし、家も広いし、君ん所全員が住めると思うんだけど」
淡々と作業を続けていた少女は、一拍遅れて、手を止めた。
「えぇっ?!」
とんでもなく驚愕して、相手を見る。
「えっ?なに?聞こえなかったかな?
だから、私と結婚したらお金の問題はなくなるって言ったんだけど?」
少女は戦慄した。
……この近距離でっ、聞こえてないわけがないだろうがっ!
しかしよくもまあ躊躇なく二回も言えたもんだわ。
こいつは人としての心の一部が欠如してるのかもしれん。
ま、そこは私も人の事言えないけどさ。
まあとにかく、相変わらずヘンなやつじゃ。昔からほんと変わらん。
許容範囲以上の驚きのせいか、現実逃避のように思いを巡らせ、ハッとする。
黙っていては、会話は危険領域を脱しないのである。
……早く、先ほどまでの当たり障りのない友人同士のありふれた会話内容に戻さねば。
そう思っていたのに、少女はふとうっかり思い出し笑いをして、そのまま話を続けてしまった。
「あははっ、そういえば君って小さい頃にも、私と結婚したいって言った事があったよね。その頃から君ってアレだなあと思っていたけど、今も変わっていないって事だねえ」
「アレって、どういう意味だよ?それにしてもほんとよく昔の事を覚えているんだねえ。
あれは、君と一緒に遊んでると楽しかったから、家族になれたらいいなあと思って、言ってただけなんだけど。
家族だったら、帰る家も一緒になるから、ずっと長く遊べると思っただけだよ」
あまり気恥ずかしいといった様子もなく、本人も懐かしむ目をして答える。
「そう言われたら、私も君と遊んだ日は別れるのは寂しかったかな。
君と話したり遊んでいると、とても楽しかったよ。
今だってそうかも。
今日は私はわりとひどい一日だったのに、今はなんだか、楽しいよ」
笑顔で話していたが、ふと、ハッとして青年を改めて見た。
「そういえば、思い出した。
前に細君たちに、私が無職になったらゴチャゴチャして一家離散するかもしれないって大騒ぎされたんだよね。
君、いや、あなた確か、結婚したら私の家族全員ごと養ってくれるって、言ったよねぇ。
だから、私が無職になった時は結婚してもらえると助かるんだけど。
それでよかったら、後で一筆、結婚した時はうちの家族と手伝いも全員を引き取るって、書いてほしいな」
しばし時間が停止したような完璧な静寂が流れたのち、突如、青年の発言で堰を切ったように全てが動き出した。
「書く書く書く、なんでも書きますよっ!
で、あなたはいつ無職になるご予定で?」
少女は笑った。
「今の所その予定はないけど、所詮、小役人さ。
邪魔だと思われたら、すぐにでもクビになるよ。
それをゆっくり待っていればいいさ」
「わかった。ゆっくり待つよ」
青年の素直な返事にうなずいてから、少女は尋ねる。
「そういえばさ、君の奥さんは今、何人いるんだっけ?」
「二人だけど」
……なるほど、万が一結婚する事になったら私に第三夫人という履歴が増えるわけだ。
「わかったよ。君のご家族にも、うちの家族の事をよろしく伝えておいておくれよ」
「ええ、もちろん」
すっかり底なしに微笑んでくる青年を、少女は複雑な表情で見ていた。
つづく
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