第21話 譙県・休日という名の魔法 友人 その1
春の空の高みでは、陽気な雲雀がさえずっている。
その下で、陰気な表情の少女が馬をゆっくりと歩かせていた。
数刻前の実家でのやりとりを思い出してはため息をこぼしたり、赤面したり、うめいたりしている。
そうしている間にも景色は変わり続ける。いつのまにか田園のあぜ道に入っていた。
風が吹くと水田の水面がきらきらと瞬くのが目に入った。
そのあまりに鮮やかな様子に少女はしばし気落ちを忘れて見惚れていた。
そして唐突に気づく。
長い帰り道を、昼食も取らずに進んでいたのだ。
立ち止まって、自分よりも馬の具合を心配した。
健気な馬は、いつもと変わらず優しい大きな瞳で主人を見返すばかりである。
馬にまで気を使わせている自分に、また、自己嫌悪のため息をこぼす。
木陰を見つけて、共に食事や休憩をした。
旅路を再開してしばらく進むと、小さな町に入った。
この町の郊外に、新しい我が家があるのだ。門番に馬を預けて家屋へ向かう。
玄関に入ると、木材の匂いに包まれた。
靴を脱いで上がろうとしたとたん、あわただしく家具や荷物を運びいれる使用人たちに遭遇した。
皆、主人に気付くと元気よく挨拶し、いそいそと力仕事へと戻っていく。
邪魔にならないようにすみっこで靴を脱ぐと、見知らぬ廊下をキョロキョロしながら数歩進んだ。
そして、気づく。
……あれ?私はどこに行けばいいんだっけ?
家の事は細君たちに任せっきりだった。
どの部屋が、なにの部屋になったのか、さっぱりわからない。
……そもそも私の部屋は決まっているのかな?
たぶん、いらない部屋を好きに使えと言われるような気がする。
わからないなら、細君たちに聞けばいいのだけれど……。
しかし、引っ越し作業でいつも以上にうるさ、いや、はりきっているであろう細君たちを探しだして聞く気は、しなかった。
どこか静かな場所はないかな。
そう思った時、離れ屋の書斎を作ったことを思い出した。
玄関に引き返すと、猫のようにそろりと音もなく中庭へ向かう。
離れ屋の書斎といえば格好がいいが、大量の竹簡を保存するための倉庫である。
……しかし一応、主人の倉庫、いや、書斎なわけだし、もしかして片付いてるかな?
かすかな希望を胸に、小さな木造の建物の引き戸を開けた。
その動きに合わせて陽光と影が移動する。
ぽかんとした部屋には大きな長櫃(ながひつ)が三つ、使い込んだ机が一つ、佇んでいる。
長櫃の蓋は閉じたままで、壁の棚はからっぽだ。
……自分の事は自分でやれという事だ。そりゃそうかもしれないけれど……。
今日は疲労の度が過ぎていて、思わずまたため息をついてしまう。
「もしかして孟徳殿?おかえりっ」
突然、部屋の奥の影から明るい声で呼ばれて、顔を上げた。
懐かしい声に、少女は驚くよりも先に笑顔を浮かべた。
「もしかして元譲殿?ただいま。
久しぶりだねっ。何年ぶりだろう」
長櫃の横をすり抜けると、部屋の隅に座り込んでいた幼馴染のそばに駆け寄る。
親しく腕を伸ばしたが、ふと、躊躇した。
しかし相手も腕を広げたので二人は再会を喜び抱き合った。
一日に二回も他人の香がハッキリわかるほど接近するとは珍しい日だな、と思いつつ少女は笑顔で身を離す。
「君がまた、譙(しょう)に帰ってきてくれて嬉しいよ。
中央での君の活躍は、ここでもよく耳にしていた。
神童は大人になると凡人になるいうけど、君の才能は変わらなかったようだね」
青年の憧憬の眼差しに、少女は決まり悪そうに苦笑いを浮かべた。
「私は今も昔も、ただの悪童さ。
洛陽、とくに宮廷には、想像以上の秀才が山ほどいたよ。
私なんて、ただの凡人だと思い知らされただけだった。
私はもっと努力したり、勉強しないと彼らにはついていけない。
ふふっ、そんな私のつまらない話よりも」
少女はすでにゆるむ口元を袖で隠しながら言う。
「君の面白い話を聞かせてよ。今でも迷子になるのか?」
青年は少し頬を赤くした。
「よくもまあ、そんなつまらない昔の事を覚えてるねぇ。
今は夜でもない限りは……あまり迷わないよ、たぶん」
歯切れの悪い返事に、二人は笑った。
友人との会話はありふれた内容でもやたらに楽しく感じられるのだった。
つづく
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