お休み中~仮病ではない~
第19話 譙県 ・休日という名の魔法 父
「病を患いましたので故郷て養生いたします」
その短い言葉で、栄転であった東郡太守の任命を拒否すると、少女は譙県に帰郷した。
あまりに唐突だったので「仮病なのでは?」と噂が広がった。
しかし「いまだに姿が元に戻らない、説明のつかぬ変化の事では?」と、皆、勝手に答えを考え出すと、怪しみは同情へと代わっていった。
そして、その数日後には新しい話題が盛んになり、少女の話をする者はいなくなった。
豫洲の沛国、譙(しょう)県。
帝都洛陽から遠くない場所にあり、四方を深い森に囲まれた街である。
変わっている所といえば、この土地は三家の豪家が協力して治めていることである。
曹家、丁家、夏侯家。
この三つの一族はもはや血族といっていいほどの親密さで結びついている。
実際、曹操の正妻は丁家の娘である。
故郷、譙県に戻った少女はさっそく引きこもりたい気持ちで一杯だった。
しかし、まずは父、曹嵩のいる実家に挨拶に行かねばならない。
父と兄弟たちに会うのだと思うと足が鉄の塊にでもなったように重くなる。
「操」
親と帝だけが呼ぶ事を許される諱(いみな)で声をかけられて、少女は顏を上げた。
顔を上げると、父の曹嵩(そうすう)がかなり間近まで膝を詰めてきていたので驚き、そして、居心地の悪さに今すぐ出て行きたくなった。
彼の背後には、年のころは、本来の自分とほぼ変わらない弟の曹徳と、もう一人の弟、曹彬(そうひん)が大人しく座っている。
だが、近すぎる父に隠れて、二人はほとんど見えない。
「久しく会えなかったので寂しかった。
体調がよくない中、よく来てくれたね。
ずいぶん様子が変わってしまったようだが、やはり調子はよくないのかね?」
曹嵩は我が子の瞳を覗き込むように、顔を傾げて見つめ続けた。
……この姿は初めて見るのだし、珍しいのは仕方がないだろう……。
少女は笑顔を浮かべて、答える。
「お気遣い、ありがとうございます。
父上はおかわりなくお元気そうで何よりです。
私は仕事に追われたせいで、体調を崩してしまいました。
のんびりすればまた元気になると思います。
ここからはかなり離れた町に、養生用の家を建てました。
そこで良くなるまで大人しくしようと思っております」
「ふむ……。家くらい、私が建ててやったのに。
すこしはお前から頼られたいものだ。
ところで、近々、私はまた中央に復帰する予定なのだ。
お前と入れ違いで私は、また、洛陽に戻る事になった」
「兄上、父上は太尉に任官されるのです」
「兄上」と呼んできた青年は、元の自分の姿を思い出す涼やかな目をした男だった。
そして彼の一言に、少女は自分の鼓動が跳ね上がるのを感じた。
曹嵩は目ざとくその変化に気づき、ふふっと笑った。
そして少女の耳ともに、曹嵩は悪戯っ子のように素早く口を寄せる。
曹嵩の着物に焚かれた香が鼻孔を浸食した。
曹嵩はささやく。
「太尉が売官されておったのだよ。
一億銭で値段は張るのだが買う事にしたのだ。どうだ、良い買い物をしただろう?」
その言葉に、思わず目を見開いて父を見返した。
……三公の位まで売官されていたとは。
最高官位さえ、今や完全に地に落ちてしまった……。
しかし少女はすぐに笑顔を作って父を見直した。
「それはそれは。
父上が三公に昇られるとは、心から誇りに思います」
「ははっ」
父は目は全く笑わず、口だけ歪めて笑った。
「操、お前は相変わらず意地っぱり、いや、我慢強いね。
遠慮せず、私に怒ればいいじゃないか。
ここでは儒教の親を敬えなんて建前、いらないんだよ。
だけど、すこし嘘が下手になったのかな。
清流派を気取るお前がそんな事を本心で思っているわけないのは、さすがに私にもわかるさ。
それとも嫌味を言ってるのかな。
とにかくお前は、私が官位を買った事を軽蔑しているのだろう?
はっきり言いなさい」
少女は、あまりに率直な言葉に身が固まった。
父はその様子を気にする事なく、笑顔で続ける。
「今は、そういう時代なのだよ。
私は苦労せずに最高の位を得て幸せになるし、それを売った宮廷も、金を得て幸せになる。誰も不幸にならないどころか、皆が幸せになれる。
これの何が悪いんだ?
まあ、お前はそんな事は全て承知の上で、世の流れに逆らっているのだろうがね。
しかし賄賂を嫌い、法律を厳守し、清流派を気取っても、お前が濁流の代表である大宦官の家系というのは変わらない。
そしてこの家系が、役人としてのお前を強く護っているのも事実だ。
お前はよくムチャな事をするがそれでも無事なのは、大宦官の孫だから、皆、配慮してくれているのだ。
それを忘れて、自分一人の力で生きている、などと勘違いするのは良くない事だ。
お前も私も、私たちは今でも亡きお爺様の偉業に護られている。
それを忘れてはいけない。常に感謝せねばならない。
そしてお前も素直に、この大宦官の家系という恩恵を享受すればいいのだ。
そうすれば、色々と、苦労せずに済むというのに。
まあしかし、お前の人生だ。お前の好きにすればいい。
私は、いつでも不器用なお前を応援しているし、味方だよ。
なんにせよ、今はゆっくり、養生しなさい。
何かあれば、遠慮なく、私を頼りにして使い倒せばいい。
私はお前の親なんだから。
こんな父だが、私はいつでも、お前を待っているよ」
そう言うと曹嵩は立ち上がった。
それに続いて彬と徳も父のあとに続く。
「ち、父上。私は本当に心からそう思って……」
と、自分でも嘘だか本当だかわからない事を口走ろうとする前に、皆、ふり返ることなく出て行ってしまった。
広い部屋に一人残された少女は、急に自分の頬が赤くなるのを感じた。
つづく
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