第13話 済南・その済南相、悪魔か救世主か その2

 済南府の中庭には、秋には実をつける樹木と季節ごとに咲く花が植えられており、手入れもされて美しい。

その中に講堂は埋もれるように建っている。

ここ数年、まったく使用されていなかったのでこの建物が何なのか知らない者もいたようだ。


 土埃がこびりついた木製の扉の内側に錠がある。扉の下に小さく開けられた鍵穴から、鉄の棒に見える鍵を差し入れて内側の錠をそれでひっかけて、解除するのだ。


大きな扉を全開にして、窓の板が跳ね上げられると風がよく通り、カビの匂いと淀んだ空気が少しマシになる。


 やがて「仕事の邪魔をして」などと、怒りながら役人たちは集まってきたが、そのほとんどが居眠りや雑談ばかりしていた彼らであった。


 埃の積もった檀上の隅で竹簡を広げていた少女は、秦良に声をかけられると、ずかずかと進んで舞台のど真ん中に立った。

少女が檀上に現れたことに気が付いても、役人たちは無視して雑談や怒りの声を止める事はなかった。


「やあ、諸君、本日はお日柄も良く、集合ご苦労」


 少女は両手を後ろに組み、とくに大声で言うでもなく、話し始めた。

すぐに「お嬢さま、小さなお声で聞こえませーん」などヤジが飛び、笑われたので、少女も一緒にハハハと笑った。


 そしてまた、音量を変えず話し始める。


「私は、本日から済南の相に就任する曹孟徳だが、名前は覚えなくてもよい。


なぜなら、こにいるほとんどの者が、今日から数日にかけて、この役所からいなくなるからだ」


一瞬で、講堂の空気が変わった。しん……と静まり返った。


そして先ほどと同じ声量の少女の言葉だけが建物の隅々にまで響き渡る。


「諸君。すでに知っているだろうが、私は賄賂が嫌いだ。いや、大嫌いだ。

ここにも、身に覚えがある者がいるだろう?

賄賂汚職は立派な犯罪なのだ。


諸君らは何年も、いや何十年も繰り返し、すっかり悪行が日常、文化となり、ド忘れしているのかもしれないが、賄賂は度過ぎている場合、死罪にもなる重大犯罪だ。


どうだ、思い出したかな?

つまり役人のフリをしている諸君らのほとんどは、犯罪者なのだ」


 一旦、言葉を切り、檀上から、ゆっくりと皆を見渡す。


状況が理解できず呆然としている者、怯え始めた者、憎々しく睨みつけてくる者、様々である。


 少女は少し背を反り、彼らを見下ろすように姿勢を正して、また語り始める。


「しかし私は優しいので、今回、諸君らに、罪滅ぼしの機会を与えようと思っている。


罪を犯した者は、自白すればそれ以上追求せず、罷免だけに済ませてやろうと思う。

さらに密告した者は、私が一筆書いて食うに困らない程度の職を探して、やらんでもない、かもしれん。

しかし、たとえばだ。


諸君らが一致団結し、誰も自白しない、密告もしない、とする」


少女は持っていた竹簡を高々と上げて広げ、そこに大量の文字が書かれているのを見せた。


「その時は、この竹簡の名簿によって、取り調べを行う。

私がひそかに調査し、賄賂を受け取っている人物の名前と詳細が記されている。


その者を順に呼び出し、厳しく取り調べをしたいと思う。

そして、事実と判明した者から速攻、容赦なく死罪にする」


そう言い終わると、竹簡を高々と上げたまま巻こうとしたが、突然「あーっ!」とわざとらしく大声で叫んだ。

それからまるで竹簡を放り投げるように大げさに手を滑らせる。


ひゅーんと竹簡はなだらかな山のような軌道を描いて、ちょうど役人たちのど真ん中へ落下した。


「証拠の竹簡がっ!!」

少女は棒読みで叫んでいる間に、竹簡はまるで空腹の家畜たちに与えられたエサのように奪い合われ、その姿を消してしまった。


「なんてねー」

少女は小悪い笑顔を浮かべ、続けた。

「まさかわざとらしい釣りにひっかかるとは思わんかったのじゃ。

さて、竹簡を触った者は手のひらを見てみろ。古くなって粘着した墨がベタベタついとるだろう」


 言われる前から心当たりのある者は手のひらの汚れを手拭きで取ろうとしたり、着物に塗りつけている者もいた。

しかし古い墨というのは悪質で、拭おうとするほど汚れがこびりつく上に広がり、逆に竹簡に触れた事を宣伝する羽目になっている。


「籍礼クン、墨で汚れているヤツらをとりあえず全員、捕まえろ」


 まるで乙女のように口元に手を当てて、ぽかーんと全てを見ていた秦良は上司に突然、字(あざな)を呼ばれて頬を赤くした。

そして興奮冷めやらぬまま、汚れた役人たちを一か所に集め始める。


 突然、出荷を察した豚のような哀しい悲鳴が聞こえ、半狂乱になった一人が剣を抜いた。

暴力で何とかしようと考えるだけあり、小太りだが、恰幅だけはいい男である。

彼が剣を構えると、周囲の役人たちは悲鳴を上げて、彼と籍礼を残して遠巻きに囲んだ。


 籍礼も剣を抜こうとしたが、不練習と緊張で手が震えた。

その時、背後から肩をたたかれたので、ギクリとして振り返った。


「変わろうか」 

そう言う背後の少女の口元には、いつもと変わらない微笑みさえあった。

少女はその細い腰に佩いでいるニ本の細い剣の柄さえ握っていない。


 籍礼は、本来は自分が相手と対峙するべきだと思いつつも、しかし思わず後ずさりし、少女と立ち位置を変わってしまった。


この時の彼というのは、全く心の余裕がなかった。

だから、自分が臆病だからと自己嫌悪しつつ、身を引いてしまった。

だが、もしも、彼に少しの余裕があったなら。

危機で研ぎ澄まされた直観が「この場は強い者に譲った方がいい」と、理性を越えて助言してくれていた事に気づいたはずである。


「さあ、相手はか弱い女の子に変わったぞ。私を殺せたら、キミは犯罪者たちの英雄だね」

 そんな単純な挑発に、力だけはありそう役人は怒気に漲った目で剣を大きく振り上げた。

斬るというより殴り殺そうとばかりに振り下ろす。


 次の出来事というのは、この講堂にいる者全てが初めて見た刹那の動きであった。

いや、正確には、ほぼ結果だけを目撃した、というべきだった。


 少女の抜刀の瞬間はもちろん、動きもほぼ誰も追えなかった。

細い白銀の剣は、相手の青銅剣を真っ二つにして弾き飛ばし、さらにもう一本の黒鉄の剣は、相手の首に触れる紙一重で止まっている。


斬られて飛んだ青銅剣の一部の落下音が、まるで閃光から一拍遅れた雷鳴のように、堂内に鋭く響き渡った。

その音が静寂を破る合図になり、一斉に、大きなどよめきが起きる。


少女は、まだ黒鉄の剣を相手の首に突き付けたまま、満面の笑顔で言った。 


「キミの剣が、混じり物だらけのお飾り青銅剣で良かったよ。

剣がうまく斬れなかったら力が入って、罷免(クビ)どころか、本当にクビを飛ばしてただろう。

さてと、大人しく私たちの取り調べを受けてくれるかな?」

 

 その後、約八割の役人が賄賂汚職の罪で罷免され、きっちりと死罪や刑罰を受ける事となった。

身を改めるつもりのない者たちは済南国から逃げ出し、それぞれ頼りになりそうな者に取りすがり、少女の悪口を言いつけた。


 やがて役人の入れ替えが終わると、捜査対象は賄賂の元である豪族たちに移った。

彼らが賄賂に使っていた金は、税収以外の支払いを不正に農民に課して貯めたものの一部だったのである。

本来の適切な税の支払いに戻したい。

とても単純で、そして当たり前の話に思える。

しかし不正が日常化してしまったこの国では、これを正そうとする行為が、逆に悪であり、日常を破壊する悪魔的行為として、逆恨みされてしまうのだ。


 少女はぼんやりと思った。 


役人たちから恨まれ、次は、豪族たちからも恨まれるだろう。

しかしその副産物で、いずれ民衆の暮らしは、少しずつでも良くなるはずだ。

民衆の気持ちと、暮らしはとても重要なのだ。

彼らを苦しめ続ければ、あの黄巾賊のような狂暴な集団へと変貌するかもしれないからだ。


それに、民が平穏に暮らせるという事は、漢王室への不満が減り、その権威が安定に繋がる事でもある、と思う。


……私が多くの恨みを買ったとしても、それは、漢王室と、世の中の平穏へのささやかな助けになっているはずだ、きっと……。


今は、そう信じる事だけが心の支えだった。


 つづく

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