第10話 洛陽にて その1

 格子に刻まれた青空が、壁に浮かんでいた。

そこから無遠慮な陽光が、暗い部屋を浸食してくる。


 忌々しいように窓の遮光板を降ろすと、部屋を完全に暗闇にした。

さらに霧のような蚊帳を降ろし、寝具全体を覆う。

そして布団を頭からかぶると、固く目を閉じた。


 少女は、戦場潁川(えいせん)から洛陽に帰還すると、すぐに身を清めて、参内した。

大将軍の何進(元肉屋さん)に跪いて戦果の報告をして、ほぼ無傷の官軍兵士を還し、同僚に堂々と挨拶もした。

 その帰り際である。

大鉄扉の前で、痩せこけた案内の役人は冷たい声で言った。


「次の沙汰があれば、連絡いたします」


それが合図のように、禁門は金切声のような甲高い軋み音を立て、勢いよく閉じられた。

……その、拒絶感たるや。

 少女は吐き気を我慢して帰宅した。

そして、頭痛が痛いなどとつぶやき、そのまま自室へ閉じこもった。

それからはまるで生命活動に抗議するように、ほとんど食べずにひたすら眠り、現実から意識を遠ざけ続けている。


……沙汰が、あれば……?

その言い方からして、クビにするか否かの判断なのは、明らかである。

……元の姿のままなら、絶対、栄転の話だったはず。


「それが、無職になるかもしれないとは!」

 この身に降りかかった理不尽に、何度目かの興奮と動悸、そして眠気など完全に四散し、生ぬるい布団の中で思わずゴモゴモと身もだえる。

考えても仕方ない事だとわかっているのに、なぜ頭の中から苦悩は消えないのか?


 ガタガタガタ、と、急に戸が音を立てたので、ぎくりとした。

誰が来たのかと、全身を尖らせるような鋭敏さで耳を澄ませていると、小さく猫の鳴き声が聞こえた。

ほっと安堵すると、すぐにまた布団の中に潜り込み、小さくなった。

戸はしばらく音を立てていたが、やがて、静かになった。


 寝具の主は、布団のすきまから闇の奥の戸を見つめた。

もう音はしない。

「……」

足を下ろすと、夜目をきかせて床に散らばる正装を踏まずに進む。

剣だけ拾うと、帯に適当に挟んだ。


 そっと、部屋の戸を少しだけ開くと、昼の白い光と共に猫が滑り込んできた。

主人の容姿が変わった事などお構いなしに、喉を鳴らして足にまとわりついてくる。

その無邪気な様子に、少女は思わず、小さな笑みを浮かべた。

鼠捕りはどうした、と声をかけながら優しくすくい上げると、その柔らかく暖かい身体に頬ずりをする。

そして、音もなく廊下を歩き出した。


 不思議と周囲には人の気配がなかった。

廊下にも、窓から見下ろす簡素な中庭にも、人影はない。

格子の外の澄んだ青空には、雲はなく、風もない、鳥もいない。

ただ穏やかに、時間だけが通り過ぎている。

 

 ふと、琴の音色がかすかに響いてきた。

すこし調律がずれた完璧ではない音が、今は、良い塩梅に聞こえる。

まるで透明な蝶に誘われるように、琴の音をたどり、やがて一階の大きな部屋へ着いた。


 部屋をのぞくと、同時に、床に寝転んで筆を動かしていた男の子も顔を上げた。

「ぎいゃああああっ!!」

小さな男の子は、持っていた筆を落として絶叫した。

「お母さまっ!!今、洛陽で話題の、呪いの竹簡の少女が!そこに立っておりますよっ!!早く見て!早くー!」

「はあ?落ち着いてよひーくん。あれは、作り話よ」

部屋の真ん中で、琴の音に合わせて、やたらキレのいい踊りの練習をしていた女性は息子に声をかけた。

「その竹簡を読んだら、一週間後にお前を殺す!だなんて。

そんな便利なものが……」

優しい苦笑いを浮かべながら軽やかに身をひるがえし、息子の視線の先を見て、ギクッとする。


 しかしすぐに衣服の乱れを直すと、床に手をついて丁寧に一礼をした。

「あらまあ、孟徳さまっ!お元気になられたようで何よりですわっ」

と、花のような愛らしい笑顔を浮かべて少女を迎えた。

彼女の言葉に、部屋にいる全員が慌てて床に手をつき丁寧に一礼をした。


「呪いの竹簡の少女って、なんなのだ?」

「はい父上っ。呪いの竹簡の少女というのはですねぇ」

と、先ほど恐怖で絶叫していた男の子が手を上げてやけに流暢に答えている間に、小間使いが忙しなく行き来して寝間着の少女の身なりを整えていく。


参内の際、正装の寸法直しをして、その数字を元に、家族と使用人たちが総出で、今の体形に合う寸法の着物を縫っていたのだ。冠も、軽い物が作成されていた。


「あらまあっ」

着せ替えられた少女を見て、踊りの練習をしていた女性は瞳をキラキラと輝かせた。

「すごく素敵ですわっ。ねえ、私、あなたみたいな華やかな人が役人だなんて、ちょっと勿体ないかなー?と思います」

「どういうこと?」

渡された手鏡で、冠の位置を少し直しながら少女は問う。


「だってあなたって、詩も作れるし歌も演奏だってお上手でしょう。

運動神経もいいし、踊りも上手くできそう。

きっと洛陽で一番の、いえ、この国で一番の音楽家、歌手、踊り子、そのすべてになれると、私は思いますのっ」

「えっ、それって、役人やめても、踊り子で食べていけそうってこと?」

「そうです。私たちならきっとできますわ!音楽の世界で天下を取りましょうよっ」

「音楽の世界か。それも、面白そうかも」


「あらまあ、傾国の踊り子の誕生かしら?」

「げえっ、お姉さま」

 入り口には、雪のような白い肌と墨のような艶やかな髪を持つ女性が立っていた。

背が高く、胸元で腕をくみ、冷ややかな眼で二人を見下ろしている。


「わあっ?!お父様、思ってたより可愛らしくて僕はビックリ仰天ですっ!

身内じゃなかったら結婚を前提にお付き合いを申し込みたいくらいですよっ」


氷のような視線の美女の後ろから、ひょっこり少年が現れて軟派な事を言う。

「まあ昂ちゃんったら。家系図がおかしくなるような事を簡単に言わないでちょうだいな」

背の高い女性が優しくたしなめると、少年はテヘッと舌を出して可愛く笑った。


 いつしか、部屋の周りには、数日間、寝込んでいたご主人様が起きてきたという事で、家族はもとより、雇われている者たちも様子を見に集まっていた。

ガヤガヤと、皆、快気祝いと、気遣いの言葉をかけていく。


 それも一段落すると、いつしか広い部屋の真ん中に少女と五人の妻たちが座って並んでいた。

その奥では、子供たちが遊んでいる。 

その時、庭でけたたましい鳥の声が響いて、少女はギクリとした。

「ちょうどいいわ」

背の高い姉さまが冷ややかに口火を切った。

「少し、みんなでお話をしましょうよ」


つづく

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