第9話 バトル・オブ・潁川
漆黒の空に浮かぶ満月は異様に強い白銀光を放つ。
そのために地上の色彩は消え失せ、白と黒の世界となっていた。
それが何かの罰のように感じるのは、感傷に浸りすぎだから、と少女は自分の気持ちを突き放した。
事前に聞いていた通り、風は強くなり、時に暴風となり吹き荒れた。
生暖かい突風に煽られると、まるで透明な巨大生物に体当たりされているようにも感じる。
少女は馬上で短剣を手先で回しながら、状況の変化を待っていた。
短剣なのは今の姿では剣は重すぎて、それを回す事など不可能だからである。
そもそも剣は佩いでいるだけで重くて負担だった。
剣でもその有様なので、鎧など纏えるはずもなく軽装の軍服姿という無防備ぶりである。
すでに自軍は配置についている。
あとは事の始まりを待つばかりだった。
事は、火計から始まる予定である。
予定とはいえ、日常でも何が起こるかわからないのに、戦場でそう思い通り事が進むかどうかは、わからないのだが。
黄巾賊は火と皇甫嵩と朱儁の軍勢から逃げるために、こちらの風下に向かって逃げてくるだろう。
それをできるだけ討ち取る、という、非常に単純な作業である。
自軍の配置も単純なもので、歩兵を五人で組ませて配置している。
五人は軍隊の中で一番最小の組である。
逃げる事はもちろん許されないが、持ち場は自由に移動してもよい。
……兵士たちの心は、西洋の硝子のように繊細なのだ。とにかく、無理をさせない事が大切だ。
彼らの間には、騎馬隊が遊撃手、兼、監視役として動き回っていた。
左右の際(きわ)には、夜間かつ乱戦のため出番のない弓隊に盾を持たせて、適当な間隔で並ばせている。
これは逃げる者を一方向に動かしたいための工夫というだけである。
剣の扱いも慣れていない彼らには、危険が迫った場合は持ち場から離れてもよいと言ってある。
それに勇気のある黄巾賊は盾の兵士の横を抜けて、死地から脱出できるようになっている。
敵を逃がすつもりなのは、彼らの方が圧倒的に数が多いからである。
少数の敵でさえ追い詰め過ぎると「もう戦うしか生き残れない」と必死になるものだ。
有名な背水の陣がまさに、その心理を利用した戦い方である。
少数でもそれなのに、万が一、十万人近い敵がそのような心理になれば簡単にこちらが殲滅されてしまうだろう。
だからここは「走って逃げれば、助かるのでは?」と、逃げる事だけに希望を持たせる事が大切なのだ。
そしてこの、走って逃げる、つまり全力疾走させる事が大事なのだ。
この簡単な行為が、確実に、相手の体力を大きく削ぐからである。
……たとえば一里(約四百メートル)いや、半里であっても、全力疾走すれば、倒れ込むほど疲れるはずだ。
そこを、私たちがとどめ刺す。という簡単なお仕事、になるはず……。
……そう、うまくいけばいいのだけど……。
「曹騎都尉、今、火が付いたそうです。ここから約三里先です」
斥候が、考えに沈んでいた少女に声をかけた。
戦場に多数の斥候達を配置し、中継式で報告させているので、状況との時間差はほぼない。
「皆、戦闘準備をしたまえ。すぐに敵が来るぞ」
少女がつぶやくと同時に、次々と復唱され、さざ波のようにその言葉が伝達される。
本来、戦場の合図は銅鑼など大きな音でするものなのだが、今は、自分たちの存在は隠したいので使用していない。
少女は太ももに固定している皮の鞘入れに短剣をしまうと、寸法の合わない大きな革手袋をはめ、馬の手綱を今一度握った。
ここ本陣は、右の端より少し奥の真ん中に作られてあり、隠さずに騎都尉の旗も立てられている。
とはいえ、この夜更けに、焦った敵からはほぼ見つからないと思われる。
見つかったとしても、護衛の兵士で囲っているので守りは十分、のはずだ。
万が一危機が迫った時は、今は戦える姿ではないので真っ先に逃げる予定である。
やがて、遠い先に橙色の炎に照り返された灰色の煙が見え始めた。
どこか他人事のように、今はただ光景を見つめているだけである。
月の下、強風にあおられたそれはモコモコと膨れあがり、夜空に不気味な染みを作っていく。
風の中に、焦げた臭いが微かに混じり始めた。
澄み切っていた夜の空気が徐々に濁っていく。
果たして、これは草以外、何が燃えている匂いなのだろうか?と、考える事はすぐに止めた。
もしかして、死んだあとに行く世界は常にこんな臭いがしているのかもしれない……。
ふと、少女は音のない雷でも見たようにギクリとして、顔を上げて白と黒の月下の世界を凝視した。
この罠の中に、早くも敵が入ってきたのである。
予想より早かった。
騎兵がくるかと思っていたが、歩兵というか黄巾賊というか巾もつけていない。
見た目はただの農民だった。
火計の炎と奇襲の騒ぎに驚き、自分たちの象徴である黄色の巾さえ置いて、ここまで必死に走って逃げてきたのだろう。
少女は興がそがれたように、かすかに眉根をひそめた。
黄巾賊というのは、政府に不満を持つ、ただの素朴な農民の集まりなのだと、その姿で嫌でも再認識する。
馬に乗っているような黄巾賊の指導者と呼ばれる上級官たちは、すでに皇甫嵩、朱儁の兵士たちに討たれたのか。
あるいは、冷静に火の迫らない脇を抜けて逃げ去ったのか……。
来るのは、哀れな弱々しい民たち、いや、黄巾賊ばかりである。
皇甫嵩、朱儁の軍に追われ、約三里(約一キロ少々)の距離を全力で逃げてきた黄巾賊が続々と到着する。
そしてここが罠だと気づいても、抵抗したり逃げる体力はもうない。
すぐさま絶命の声を上げて地面に倒れ、積み上げられていく。
月の光は異様に明るい。
戦況は鮮明に観察する事ができた。
少女は無言で、隣にいる副将兼騎馬隊長も言葉はなかった。
そのため、かすかな地鳴りと、巨大な獣が喚くような不気味な声が迫ってくるのに気が付いた。
異様の中、すぐに斥候が駆け寄った。
「曹騎都尉、黄巾賊の大群が、こちらに迫っております。
退避されるのでしたら、今のうちに動かれますように」
少女は、言われるまま本陣を斜め後方へと下げ続ける。
やがて先ほどの地鳴りがちょっとした地面の揺れに変わった。
そして集団や群衆というよりも、巨大な暗黒の塊が押し寄せてきた。
しかし彼らも疲れ果てており、また、密集が個々の動きを邪魔をするためか、ひどく散漫な動きぶりである。
とはいえ、群れという存在は、それだけでいくつもの可能性を秘めている。
誰一人も気が付いていないかもしれないが、もしもここで団結すれば、十分、反撃できる可能性を持っているのだ。
……自分たちの可能性に気づく者が現れる前に、相手を始末しなければならない。
最前線は、大軍を前に、自然と下がっていた。
敵の大群に呑まれる事がないように、それぞれが意思で移動し、距離を取っているのだ。
さらに、小さな組で散っていたが、一部では集まり、固まり始めている。
相手が大軍なら、自分たちも集まり、それに対抗しようとしているのだろうか。
……本能的に、自衛のために皆、自然と動いているのだ。
当然だが、兵士たち一人一人が自分が危険か安全か、察して、あるいは考えて、動いている。
少女は、敵の動きよりも、命の危機を回避するために動いている自軍の様子に目を奪われていた。
もしも大きな危険を察すれば、兵士たちは当然、持ち場を逃げ出して軍は崩壊するのだろう。
しかし、反対に敵が弱っていると思えば、功を求めて突撃さえするのかもしれない。
……兵士、軍隊は、指揮が無くても、まさに水のように自由自在に変形するんだ。
これが戦いの流れというものの、一つなのだろうか。
兵士たちも、それを敏感に察しているのだ。
この自然な流れを、上手く指揮に活かす事ができればいいのだが。
小さな雨粒も集まると巨大な滝になるように、爆発的な力になるのだろう……。
熱心に観察している少女の本陣の周りにも、逃げる黄巾賊は幾人もそばを通っている。
しかし彼らは幾重列の重装備の護衛兵に斬られ、それはやがて不吉な死屍累々となるだけである。
「曹騎都尉、皇甫嵩軍と朱儁軍が、間もなく我らの陣に入ってきます」
この斥候の報告に、少女は隣にいる副将と思わず顔を見合わせた。
彼は何も言わなかったので、また、斥候に顔を向ける。
「両軍は、どれくらい残っている?」
「ほぼ無傷です」
「ありがとう」
礼を言うと、少女は思わず場違いなほど微笑んでしまった、が、すぐに、人が死んでるんだぞ、と神妙な顔つきに戻った。
絶好の機会が来たと、今や理性も勘も確信している。
少女は護衛兵に伝えた。
「銅鑼を一回、鳴らしたまえ」
その一言は大きな声で復唱され、続いて、周囲の空気を揺るがすほどの銅鑼の轟音が響き渡った。
今はもう、自分たちの存在を隠す必要もないので、通常通り、大きな音で通信をしたのである。
それを合図に、自軍の兵士たちは敵を放って、騎馬兵と共にただ一方向へ向かって走り始めた。
さきほどの、命令前に集まっていた兵士たちと混ざり、分厚い壁となっていく。
それは、散漫な動きの敵を囲うように並んでゆく。
とはいえ敵は多く、当然、すっぽりと囲み切れるわけはない。
まるで下流に仕掛けた魚を取る網のような形で、敵を受けるように包んでいく。
そして最前になる兵士には盾が順々に渡されていく。
見渡す限りの地上は、いまや果てがわからないほど人で埋め尽くされていた。
少女は困ったように目を細めた。
……本来、ここまで大規模な戦場は、指揮者は崖の上だとかで、全体を見渡せる場所でやるべきなのだろう。
馬に乗っている程度の高さでは、よくわかない……。
やがて上方から勇ましい地響きを立てて皇甫嵩と朱儁の軍が、敵の塊に体当たりをするように迫ってきた。
まず、騎馬隊が突撃し、次に歩兵が到着する。
疲れ果てた黄巾賊は、もはや逃げる暇もなく、その突撃を受けるだけである。
圧される敵に押されるように、彼らを囲んでいる自軍も徐々に後ろへ下がっていく。
盾の隙間から刃物類を突き出しながら黄巾賊を受け止めつつではあるが。
……これで、風上の皇甫嵩と朱儁の軍、風下の私の軍。これで上手く挟めた。
「こ、これは……!」
副将も察したのか、上ずった声を上げる。
「総攻撃だ」と、少女は静かに命令を出した。
それが大声で復唱されると、銅鑼と太鼓が連打される。
その轟音に鼓舞されたように、自軍はまるで大歓声のような叫びを上げて敵へと突撃を開始した。
黄巾賊の外側は、今や四方から剣や矛で削がれて盾で押し潰され、無惨な血霧となって消えていく。
皆、逃げるように内側へと身を寄せる。
すると味方に強烈に押された中央は、腕一つ動かせない超過密状態へと化した。
こうして、彼らの死に方は二種類となった。
内側では、棒立ちのまま圧死するか、酸欠で苦しみ倒れて味方に踏みつぶされるか。
外側では、刃物で斬られる順番を恐怖しながらただ待つだけか。
もはや、彼らには打開を考える余裕も、術もない。
少女はふと思い出したように、煙と火炎を気にした。
殺戮の時間がどれだけとれるのか、火が迫るなら、それが時間切れの合図だ。
だが、それはいつの間にか、チラチラと見える程度となっていた。
誰かが消したのか?と思ったが、地面に転がる死体が目についた。
……なるほど、それで燃焼が遮られているのか。
やがて、何刻過ぎたのか。
じっくりとした殺戮の時間が過ぎた。
中央に、不思議な山ができている。
月の光が、その不気味な小高い山を浮かび上がらせている。
踏まれ、圧され、逃げ場を求めてその上を駆け上がってもまた圧され、そして積みあがっていった、死の山である。
そしてふたたび、静けさが訪れ始めていた。
一体、どれほどの人数が、暗い地面に横たわっているのか。
どれほどの人数が山となって積みあがっているのか。
戦場にふさわしい、おぞましい光景を作り上げた。
上官から注文された、残酷なみせしめにしたい、という内容にも応えられているはずだ。
きっと、明日、明るい陽の光の下でこれを見た敵も味方も、関係のない人々も嫌悪と畏怖を抱くだろう。
もう二度と戦争などしたくないと、皆、きっと思うはずだ。
……とりあえず、戦場の成果としては、これで十分だろう。
「終わり、ましたね……」
副将がかすれた声で話しかけ、少女はそれに答えるように、彼を見つめて頷いた。
それからもまた、不思議な沈黙が流れた。
誰も何も言わない、殺戮の余韻と血の匂いだけが漂う、不気味な時間だった。
少女はやっと力が抜けたように一息つくと、小さく「斥候」と、呼びかけた。
素早く、まだ緊張感を漂わせた兵士が、拱手する。
「皇甫嵩殿と朱儁殿はどこにいる?早くこの場から解散にしてほしいのだが」
「まだお二人とも、今回の黄巾賊の大将の波才を追っておられる最中と思われます。続報は入っておりませんので」
「では、お二人の副将はどこにいる?」
斥候は、少し困った表情をした。
「曹騎都尉、お言葉ではございますが。
今この場では、あなたが一番、官位がお高いのです。
軍全体の指揮を副将に任せるなど、後日に職務怠慢、下手をしたら放棄にも問われかねませんよ。
ここはあなたが指揮して解散にしないと、皆、ここから動けないという事です」
少女は眉根を寄せて、心の中でうめいた。
……それがイヤだから言ってるのに、正論を言いおって。
こんなブカブカの服で目立ちたくないし、戦場を仕切るとか、初めてだからわからないのだが……。
そう八つ当たり気味に思ったが、そんな子供のような駄々を言えるわけもない。
少女は携帯している水筒の水を一口飲むと、暴風ではためくのが鬱陶しくて外していた袖なしの外套を羽織った。
……これを羽織るだけでとたんに将軍ぽく見えるから、衣装とは不思議なものだ。
護衛兵たちを伴い、少女は味方の総勢約六万人の兵士たちの前に移動した。
……きっとみんな、こいつ、誰だよって、思っているだろうけど。それは私が一番、思ってるんだからな。
少女は唐突な目立つ役目に苛立ちながらも、それは少しも表情に出さなかった。
逆にやたら堂々、悠々、淡々とした態度で単騎で前に出る。
少女が移動するたびに、騎都尉の目印である大きな旗を三人がかりで持つ兵士も風に苦労しながら一緒についてくる。
少女は心を落ち着かせるために深呼吸しようとしたが、とたんに血なまぐさい空気を胸いっぱいに吸い込んでしまったので、途中で止めた。
代わりにいつもと変わらず、地上のことなど知らん顔で清らかに輝く銀色の月を眺めて、気分を整える。
「兵士諸君、ご苦労であった。
まず、怪我人がいたらその者を助け、先に城に戻り治療をするように命令する」
できるだけ大声で言うが、当然、全員に聞こえる事はない。
伝令が復唱し、一定距離を置いて配置された伝令がそれをまた復唱していき、大軍に自分の言葉が伝わっていく。
「我々の勝利である。
帝の住まう洛陽に一番近かったこの地から、敵を排除し、防衛できたことは大変喜ばしい。
兵士諸君、一人ひとりの働きのおかげで、帝と洛陽を護る事ができたのである。
指揮官の命令をよく守り、鬼神の如く戦い、世を乱す者と戦ってくれた諸君らに心から感謝する。
皇甫嵩左中郎将、朱儁右中郎将には、私から皆の活躍を必ず伝えると約束しよう。
それでは、一同、勝鬨を上げて、この戦いは終わるとしよう」
少女は小さい頃になんかの物語で読んだそれっぽい事を思い出して、それっぽく言い切った。
そして、颯爽と佩剣を片手で抜いて掲げる。
が、重すぎて馬の頭に叩き落としそうになり一瞬焦ったが、涼しい顔でさりげなく、左手をそえた。
……重すぎ。以前の私は、よくこんなもん、軽々と振り回してたな。
家に帰ったら、自分に合う軽い剣を作ろう。
それにしても勝鬨だなんて、なんの本に書いてたんだっけ?
なんで私、それを言っちゃったのかなぁ。
とにかく、早く終わってくれ……。
兵士たちの夜空を震わせるほどの威勢のいい勝鬨は、ゆっくりと、五回も上がったのであった。
つづく
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