九.探索者(ぎせいしゃ)は他にもたくさん存在する

第21話 どんなに気に入られようとも、他の探索者(ぎせいしゃ)を救うことはできない①


 土曜日の昼下り、仕事が休みの桂華はソファでのんびりと過ごしていた。テレビを観ながらぼんやりとしていると、「桂華」と呼ばれる。


 なんだろうかと振り返れば、ニャルラトホテプが皿をテーブルに並べていた。見遣れば、いくつかのケーキが置かれている。桂華の大好きなショートケーキもあった。



「何、どうしたの」

「たまには甘やかしてみようかと思って」

「何それ、私は子供か」

「でも、食べるだろう?」

「食べるけども」



 桂華はのそりと立ち上がってダイニングテーブルへと腰を下ろした。コーヒーを受け取ると、ショートケーキを選んで皿に乗せる。早速とばかりにケーキを口に運ぶと、生クリームが苺の酸味と合わさって、程よく甘く口溶けが良い。久々に食べたショートケーキは美味しかった。


 これだよ、これと言ったふうににこにこと食べる桂華の様子を隣に座りながらニャルラトホテプは眺めている。それはなんとも楽しげなもので、桂華はまた変なこと考えているなと思いながらもケーキを食べる。



「あんたさー。私以外にも気に入って陥れた人間いるの?」



 そういえば、自分のような人間というのはいたのだろうか。桂華がなんとなしに聞いてみると彼は「いたね」と答えた。



「キミのように溺愛した人間はいないけれど、気に入ってちょっかいかけた人間はいたかな」



 面白いなと思ってちょっかいをかけて、時に手を差し伸べて、時に見捨てて。そうやって相手が落ちていく様を眺めて楽しんでいた。


 けれど、その人間はあっという間に発狂して、あっけなく死んでしまった。まだまだ生きられただろうにと、ニャルラトホテプは残念そうに眉を下げる。



「ボクが直接、手を下したわけじゃない。怪異に巻き込まれやすくなった人間というのはすぐに壊れてしまうものなんだよ」



 それはじんわり、時に盛大に精神を削っていく。幸運でない限り、そう長くは保たない。人間というのは身体的にも精神的にも脆い生き物だ。些細なことで発狂して、悲観し、自らの命を絶ってしまう。



「だから、気をつけているんだ」



 キミにはまだ死んでほしくはない。もっと、そうもっと恐怖し、困惑し、時に狂った姿を見ていたい。誰かに殺されることは許さない、自らの手で死ぬことも。ニャルラトホテプは言う、それほどまでに気に入って溺愛していると。



「滅多にないことだ」



 そう、滅多にそのようなことを抱いたことはない。だから、桂華は特別だった。誰にも取られたくはない、ずっとそばに置いておきたい。死ぬ瞬間を眺めていたいのだとニャルラトホテプは言った。



「……そんな溺愛、嫌なんだけど」



 桂華は顔を顰める。今の発言は邪神にとっての〝気に入っている〟や〝愛している〟に分類されるのだろう。人間には理解できない愛し方だ。


 桂華はやはり、この男は怖いなと思った。そして、そんな感情を見抜いてニャルラトホテプはほくそ笑むのだ。なんと、嫌なことだろうか。桂華はまた小さく溜息を吐いてケーキを頬張った。



「ちょっかい出すのやめなよ」


「どうだろうな。ボクを崇拝する人間は結構いるし、彼らにちょっとした慈悲を与えることはある。それは仕方ないことだ」



 彼らが何を思い崇拝してくるのかに興味はないけれど、恐怖と狂気を見せてくれるのだからその褒美は与えねばならない。それは気まぐれだ、そうして与えらたものをどう使うかは彼らの自由だ。



「今もなお、怪異によって命を落とす者、狂気に堕ちて狂った者というのは出ている」



 ニャルラトホテプは「それに関与するつもりはないし、助ける義理もない」と言ってコーヒーを飲んだ。


 己が気まぐれに起こした怪異ならば、多少は慈悲を与えるけれど、そうでないのならば手を貸す必要はない。面白ければそれも考えるがそうでないのなら眺めているだけだ。なんでもないように彼は話す、それが本心から言っているのを桂華は感じていた。


 それにふざけるなと、人間を馬鹿にするなと、非道だと、訴えるほど怒るほど桂華に正義感はなかった。人間が化け物にとって、神にとって蟻同然であるのを知っている。一瞬で叩き潰せる存在で遊ぶのは彼らの勝手なのだ。だから、それに対して文句を異議をとなえることはしない。



「一般人はそっとしといてあげてよ」



 でも、少しばかりの感情はあるわけで、桂華は「信者のことは知らないけれど、何も知らない一般人に罪はないのだから」と言ってみる。けれど、ニャルラトホテプは「約束はできないかな」と笑うだけだった。



「あんただって痛い目みるでしょ」

「そんなこともあるね」

「死ななそうだもんね」

「死なないからね」



 平然と答えるので、ニャルラトホテプが言うのだからきっとその通りなのだろう。もう深く考えるのはやめた。あまり知りたくもない、知って底なし沼のように足元を掬われてもがきたくはなかった。


(もう、浸かってるか)


 足元どころか腰まで浸かっている。あとは沈んで溺れるのを待つだけだ。なんと、残酷なことだろうか。それをまた受け入れつつある自分の心情に苦笑してしまう。


 この顔の良い男から桂華は逃げられない。人間に擬態している化け物から逃れることは許されないのだ。


 ただ、この男が自分だけを見ていれば、他の人間は犠牲になることもないのかなと最近は思うようになった。どうして他人の心配をしているのだろうかとも思わなくはないのだが、それでも犠牲者が減るのならと考えてしまうのだ。


 それが堕落への道であったとしても、受け入れるしかないのだろうと。そうであっても抵抗はしていきたいとも思ってしまう。



「くっそう、絶対に落ちるものか……」



 そうだ、落ちるものか。そう抵抗を試みるけれど、ニャルラトホテプはそれを許さない。



「だいぶ、堕落させられていると思うけどね」



 にっこりとニャルラトホテプは微笑んだ。本当に顔が良いなこの男はと、桂華は渋面を見せながらケーキを頬張った。

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