八.異界に引き込まれて

第19話 たった一人の世界という状況が怖かった①


 SNSや大型掲示板などで有名になった異界に行く話。それは作り物だと思っていたし、興味もなかった。だから、話題に上がるたびに「へー」と流していた。そう、今日までは。


 桂華はいつものように電車に乗った。運よく座れてラッキーなどと思いながらスマートフォンをいじっていた。それも少しだけのはずだったというのに、顔を上げると乗っていたはずの人が居ない。


 あれと周囲を見渡してみるも誰一人おらず、奥の車両にも人の気配はなかった。今、どこだろうとそう思うもわからない。


 嫌な予感がする。その気持ち悪さを抱きながら桂華は電車が止まるのを待った。少ししてからだ。



『次は、まずるい』



 アナウンスがした。『まずるい』と聞いて桂華は首を傾げる。最寄り駅にそのような駅はなかったはずなのだ。乗り間違えたかとも思ったが、いつもの時間にいつものホームで待っていたのを覚えている。


 どこだろうとスマートフォンで検索をしてみるとヒットしなかった。じゃあ、何処なんだ。そう疑問に思っているうちに電車は『まずるい』という駅に着いた。


 駅は無人のホームらしく、自動改札もなくてがらんとしていた。桂華は降りるかどうか迷った。このまま降りていいものなのか、それとも乗ったままのほうがいいのか。暫く考えて、外に興味を持ってしまった桂華は電車を降りた。


 瞬間、電車のドアは閉まってゆっくりと走り出していってしまう。それを見て桂華は降りるべきじゃなかったのではと途端に不安になった。それでも降りてしまったので桂華は駅から出てみることにした。


 外はすっかり暗くなっていて星が疎に煌めいている。駅には無人駅だからなのか駅員すらもおらず、待合席のようなものがぽつんとあるだけで他は何もない。


 駅から出ると一本の道路があって、周囲に建物はなくだだっ広い田畑が広がっていた。ますます此処が何処なのか分からなくなる。


 試しに同僚に電話をかけてみるけれど、いつまで経っても繋がらない。次にメッセージを送ってみようとするも、エラーが出る。どういうことだろうかとスマートフォンを操作してみる。電車内では検索できたのに今はできなくなっていた。


 これはまずいなと桂華は周囲を見渡してみるも、やはり何もない。とりあえず、線路沿いを歩いてみようと一本の道路を進むことにした。


 線路沿いを歩くけれど景色は一向に変わらなくて、だんだんと恐怖と不安が襲ってきた。暗い暗い世界に一人、ぽつんと残されたような気分だった。街灯も無くなってきて、流石にこの暗い道を歩くのは駄目ではないだろうかと桂華は思う。


 戻ろう。そう足を止めてふと周囲を見てみると、朱色の大きな鳥居が立っていた。そこだけは何故だか明るく見えて異様に感じる。そう感じてはいるけれど、桂華は何故だか無視することができずに鳥居をくぐった。


 長い砂利道を歩くと大きな社が見えた。手水舎が左手にあり、灯籠が参道を挟むように立っている。その奥に立派な拝殿があって、よくある神社といった感じだ。


 何を祀っているのだろうか。看板か何かないかと探してみると、古びた立て看板があった。寂れているからなのか、文字が殆ど掠れて読めなくなっている。辛うじて読めたのは『豊饒の神』という文字だけだった。


 いったい、なんなのだろうか。ぐるりと見渡してみると木々が鬱蒼と生い茂っており、森の中にある神社のようだ。だが、鳥居をくぐった時にそんな森はなかった気がした。ますますこの場所が他ならざる場所であるのを感じて、早く元の世界へと戻りたくなる。


 どうしよう、どうしよう。助けを呼ぼうにも連絡は通じない。そこまで考えて、ニャルラトホテプのことを思い出す。忘れていたわけではないのだが、なんとなく助けを乞いたくなかったのだ。


 でも、電話通じなかったしと考えるのだが、あの化け物になら通じるような気がした。頼りたくはない、だがらと言ってずっと此処にいたいとも思わない。もしかしたら助けてくれないかもしれない。そうやってぐるぐると暫く考えてから、桂華はゆっくりと通話ボタンを押した。



『キミ、何処にいるの』

「私が知りたい」



 開口一番にニャルラトホテプはそう言った。だから、「私が知りたい」と返した。ニャルラトホテプは呆れたような声で「もっと早く連絡してきなさい」と叱ってきた。本当にその通りだったので何も言い返せない。



「でも、どうせ見えてるんでしょー」

「見えるか、見えないかで言うのなら霧が出ているといったところだろうか」



 見えなくはないけれど、よくは見えないとニャルラトホテプは言う。桂華の様子を眺めながら連絡してくるのを待っていたらしい。あんたからしろよと突っ込みたかったが、この姿を楽しんでいたのだろうと思って言うのをやめた。


 とりあえず、今の状況を説明する。それを聞いてニャルラトホテプは「異界か」と呟いた。また面倒な場所にと息をついていたので、彼的にもこの場所はあまりよくないらしい。



『それで今、神社にいると』


「そう。なんか立て看板あったんだけど、掠れてて全然読めない。豊饒の神くらいかな、読めるの」


『……今すぐその場所から離れなさい』

「え」



 それはそれは低い声で言われて、桂華は理由も聞かずに頷いた。いや、聞く間も与えずにニャルラトホテプが「とにかく早く移動しなさい」と言ってきたので、来た道を戻っていく。



「フフフフ」



 ふと、耳に掠めた声に桂華は振り返った。だが、何もいない。拝殿の奥から聞こえた気がしたけれどと思って目を凝らそうとしたら、「急ぎなさい」とニャルラトホテプに言われてしまう。後ろ髪を引かれつつも、桂華はそのまま神社を後にした。


 来た道を戻りながらスマートフォンを見つめる。移動するからと通話を切られてから数分経つ。彼は本当に来てくれるのだろうか、少しばかり不安だった。


 歩けど歩けど駅が見えない。こんなに歩いただろうか、そう考えるもそれほど長く進んだ覚えはなかった。不安にかられて桂華は周囲を見渡して目を細める。


 ぎらりと何かが輝いて何かが見えたような気がした。なんだろうかと目を凝らして桂華は固まった。


 それは濁った眼だった。ひん曲がった身体で地面を這うそれは人間の死体のようなもので、ゾンビに似ている気がした。よろよろと這うそれに桂華はうっと言葉を詰まらせる。


 精神値の塞投げに勝利したけれど、気持ち悪さと恐怖はあった。この異界にいるということが桂華を恐れさせているのだろう。


 ただでさえ、真っ暗い夜道をたった一人で歩いているのだ。不安と恐怖が入り混じっている中に化け物が現れたらその感情も高まる。


 桂華は恐怖から逃げようと駆け出して、足を躓かせた。だんっと盛大に転げて桂華は身体を起こし、打った鼻を押さえながら後ろを振り返る。ゾンビはすぐ目の前まで来ていて、あっと思ったのも束の間だった。


 ぐしゃりとゾンビの顔が踏み潰された。



「汚い手で桂華に触れるな」



 ぐしゃりぐしゃりと何度か踏み潰すとゾンビは動かなくなった。ニャルラトホテプはそれを蹴飛ばすとしゃがみ込む。



「桂華、無事か?」



 心配するような優しい声に桂華は頷いた。手を差し伸べられて、握り返せばニャルラトホテプはゆっくりと立ち上がった。それに釣られて立つと周囲を見渡してみるも辺りには何もいなかった。


 握られた手にじっと見つめてくるニャルラトホテプの姿に桂華は助かったのだと安堵する。



「なかなかに怖い思いをしたようだね」

「うるさい」



 桂華はふいっとそっぽを向いた。ニャルラトホテプは「拗ねることないだろうに」と呟いて桂華の手を引く。それにつられるように再び歩き出した。


 とぼとぼと歩いていくとあの無人駅に着いた。駅を通れば電車が止まっている。あれ、いつの間に。桂華がそう思っていればニャルラトホテプが「ほら、乗るよ」と言ってきたので促されるがままに乗った。


 二人が乗ると電車はゆっくりと走りだした。座席に座って桂華は落ち着きなく周囲を見渡してしまう。誰もいない車内というのは静かで不気味だった。暫くして景色が変わり、見知った建物が窓から見える。


 あっと視線をそらした瞬間、人の気配を感じた。車内にはいつの間にか乗車客がいた。会社帰りの人たちがなんでもないようにそこに立って、または座っている。


 少ししてから「次は行波ー、行波ー」とアナウンスがされた。戻ってきたのだ、自分はと桂華は実感する。電車から降りて改札を通り、慣れた道を歩く。現実に帰ってきた感覚に安堵した桂華はニャルラトホテプに掴まれていた手をぎゅっと握る。



「……キミ、本当に怖かったんだね」



 桂華の表情を見てニャルラトホテプは目を細めた。今にも泣き出しそうで、心底安心したような、そんな顔を桂華はしていた。


 化け物よりも、神よりも、桂華はあの誰もいない暗い異界が怖かった。もう帰れないのではないかという不安と恐怖が胸を締め付けていた。それでもそんな顔を桂華はニャルラトホテプに見せたくなかったので、俯いたまま「うるさい」と返すしかなかった。


 桂華の様子が可笑しいのか、楽しいのか、ニャルラトホテプはじっと眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る