第9話 幽霊よりもこいつの性格の方が怖いわ!②
「あー、残業ですよ、残業」
桂華はぶつぶつと文句を垂れる。普段は残業などしないのだが、この日もまた千歌に押し付けられてしまったのだ。彼女は余程、恋人が欲しいらしく今日も合コンなのだという。
もちろん、桂華も誘われたが丁重に断っておいた。あの化け物、ニャルラトホテプに何を言われるかわかったものじゃない。いや、何を仕出かすか分からないので行きたくはない。
あの男の性格は悪い。行動もそうだが言動も酷いものだと思う。何せ、人間を玩具というぐらいなのだから。簡単に人を壊すことができるというのに、恐怖し苦しみ狂う姿を見たいがためにわざと生かす。慈悲と言って手を差し伸べるが、それは自身が楽しみたいためだ。
そう簡単に死なれては困る、もっと楽しませてほしい。それはあまりにも人間にとって残酷なことではないだろうか、そう桂華は思う。何せ、狂い楽になりたいと願ってもそれを許してくれないのだ。
「人間ならサイコパスって言うんだろうな、あいつのこと」
キーボードに指を走らせながら桂華が呟く。化け物であるのでサイコパスという言葉は合わない気がするが、人間でいうならそうなるのだろう。ニャルラトホテプの場合はもっと酷い気がしなくもないが。
一人の人間を気に入って歪んだ愛情を持って愛する。彼にとって愛する行為であったとしても、人間からしたらそうではない。堕落させられ、恐怖し、苦しみ、そして狂う。自分もいずれそうなるのかと思うと桂華の肌を寒気が走った。
逃げることができたらよかった。けれど、そんな力を桂華は持っていないし、逃がしてくれるほど相手は優しくはないだろうと思っている。
「それに、堕落されつつあるんだよなぁ」
はぁと桂華は溜息を吐く。甲斐甲斐しく世話を焼かれて、じわじわと堕落させられつつある。嫌だ、嫌だと思っていても身体は甘い蜜には弱い。
あの化け物に捕まったが最後、ということなのだろう。桂華は「これはもう結婚すらできないな」と、まだ二十代前半というのに恋愛を諦めることにした。興味がなかったので、あまり未練もなかったのだが。
「いずれ狂う人生とか、ほんと運がないわ」
いずれはニャルラトホテプに狂うのだと思うと、これが幸運だと言えるだろうか。だったら、最初に出会った時に狂って死んでしまった方が良かったのではと思わなくもない。
ただ、短い命を少しばかり延ばしただけじゃないか。神様というのは残酷なものだなと桂華は思う。
「あいつも神だったわ。まぁ、いいか。……これで終わりっと」
桂華はキーを打ってデータを保存する。やっと全ての仕事を終えて、うーんと背伸びをした。これで帰れるぞと荷物をまとめてふと顔を上げる。
じっと虚空の眼がこちらを見つめていた。水浸しの長い髪が垂れ下がり、雫が滴り落ちている。これは前にも見たなと桂華は瞳のない眼と視線を合わせた。
桂華は冷静だった。またしても精神値の賽投げに成功してしまったのだ。暫く見つめあったけれど特に何かあるわけでもない。桂華はならいいかと立ち上がって荷物を手に取って事務所から出た。
*
会社から出た辺りだった。誰もいない道路を歩いていると、ひたりひたりと足音がする。誰かいるのだろうかと振り返って、桂華は眉を寄せた。
事務所で見かけた幽霊がついてきていた。またあの化け物に追い払われるだけだというのに何故かと面倒げに見つめる。ずぶ濡れの女の霊はスーッと近寄ってきた。
桂華の前までやってきた女の霊はぼそぼそと何か呟いている。なんだろうかと耳を澄ませてみた。
「わって……代わって……」
代わってと言い続けているようだった。何をと桂華が首を傾げると、女の霊はばっと顔を上げて声を上げた。
「ワタシの代わりに死んでよっ!」
そう言って女の霊は桂華の肩を掴んだ、その虚空の眼から血涙を流して。
全身を寒気が襲う、恐怖が足先から浸透してくるように。桂華は固まって動けなくなっていた。女の霊はそんな桂華の首を掴んで締め上げる。
「あっ、ちょっ……」
声が出ない、どんどんと首を締め付ける力が強くなる。だというのに身体に力が入らない。抵抗したい、逃げ出したい、そう思うのに動けなかった。
首が締まっていき、息ができず苦しい。死ぬかもしれないという恐怖が支配する。女の霊は嬉しそうに口角を上げていた。早く死ね、早く死ねと呟きながら締め上げる力を強めていく。
意識が遠のくか、という時だった。女の霊が勢いよく引き剥がされた。
「そろそろ、やめてもらおうか」
そう言って女の霊の髪を掴んでいたのはニャルラトホテプだった。桂華は首元を押さえて咳き込む。やっと吸えた空気に呼吸を整えながら彼を見上げた。
女の霊はもがきながら「殺させろ、代わってくれ」と叫んでいる。そんな様子にニャルラトホテプは興味なさげに見つめていた。
「残念だが、これはボクの
ニャルラトホテプは冷たく言って女の霊の首根を掴むと締め上げた。女は悲痛な顔を見せて必死に逃れようともがく。けれど、逃げられることはできず、だんだんと動きが鈍くなる。
ぐっと力を入れた瞬間、女の霊が霧のように消えていった。ニャルラトホテプは手を叩くと桂華を見遣る。
「大丈夫かい?」
「これ、大丈夫に見える?」
「だいぶ、苦しかったようで」
桂華が睨みながら言うけれど、ニャルラトホテプは平然としていた。それに苛立ったものの、桂華は首を摩りながら「なんでいるの」と問う。
「キミが襲われていたからね、迎えにきただけだよ」
「その言い方、ずっと見てたな?」
「当然だろう」
キミの反応を、キミが襲われている姿を見ていないわけがない。ニャルラトホテプは笑みを浮かべて言う、楽しませてもらったと。
「流石に襲われたら恐怖を感じたようだね」
「そりゃあ、怖いでしょうよ!」
襲われれば怖いと恐怖を感じるのは当然だ。死ぬかもしれないと、もう駄目かもしれないと思うだろう。そんな桂華の様子をニャルラトホテプは遠くから眺めて楽しんでいたのだ。腹が立たないわけがなく、思いっきり彼の肩を叩く。
ニャルラトホテプは「ちゃんと助けただろうに」と困ったように言うが、助けてもらった感謝云々よりもこいつの性格が酷すぎて苛立ちの方が勝った。
「キミが恐怖し、死を実感した時の表情は最高だったね」
「悪趣味が過ぎる!」
「意識を失うところまで眺めたかったが、あの霊が何を仕出かすか分からないのでやめておいた」
「いや、もうほんっと酷いわ、あんた!」
ニャルラトホテプの発言に桂華は眉を寄せる。それはそれは不愉快そうにする表情に彼は笑うだけだ。これには何を言っても無駄だと桂華は溜息を吐く。
「てか、幽霊ってあんたたちみたいな奴枠なの?」
「そうじゃないとボクは思うが。まぁ、彼らも似たようなものだからね」
怪異であり、人ならざる存在である。それは種類は違えど、似たものだ。ニャルラトホテプはなんでもないように言う、似ていたとしても神には敵うことはないのだと。
「ボクらのような存在にとってはただの虫みたいなものだ」
「邪神からしたらそうでしょうね」
「そんなに拗ねることないと思うのだが?」
「拗ねてないわ! ほんっとあんたって性格くそ悪いなって思ってるだけ!」
ニャルラトホテプは「そうだろうか?」と首を傾げる。なんだ、自覚ないと言うのか、桂華は呆れたように見つめてしまう。それに彼が愉快げに口角を上げたものだから、自覚があるなと瞬時に理解した。
だめだ、こいつは。桂華はもう突っ込むのをやめた。突っ込むだけ無駄なのだ、この化け物には。
「幽霊よりもあんたの性格の方が怖いわ」
「ボクに恐怖心を抱いてくれるのは嬉しいね。どんどん、感じてくれ」
そして、楽しませくれ。ニャルラトホテプはゆっくりと目を細める。その視線に背筋がひやりと凍ったが、桂華は表情に出さずに「うるさい」とだけ返した。
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