第7話 電話

「立てる?」と隣でしゃがみ込む気配がした。「ケガとかしてないかな」


 心配そうなその声が、惨めさに拍車をかけるようだった。

 動揺のまま、関係ない人にぶつかり、その上、心配までかけて……。


 ああ、何をやっているんだ――。


「大丈夫です!」とすっくと深織は立ち上がり、「ごめんなさい。失礼します!」

「え、失礼しますって……」


 泣き顔を見知らぬ誰かに見られるのも恥ずかしくて。忙しなくぺこりと頭を下げ、深織はその人の視線を振り払うように身を翻してその場を去った。


 そこからの記憶は曖昧だ。 


 きっと、ただただ無我夢中で寮から飛び出したのだろう。

 気づけば、呆然と涙を流しながら途方に暮れたように歩いていた。喪失感と虚無感に呑み込まれながら。

 何も考えられなかった。どこから何をどう考えたらいいのかも分からなくて。

 ただ、とっても……とても大事な何かを――、決して、もう二度と取り戻せないだろう何かを――、この夜、失ってしまったのだ、ということだけは分かった。

 どこに向かうわけでもなく、見知らぬ街をただ真っ直ぐに歩き続けて、ふと我に返ったのは橋に差し掛かったときだった。

 肩に提げていたトートバッグの中で何かが震えるのを感じたのだ。

 はたと立ち止まり、条件反射のようにそれを取り出し――、


「……!」


 あ――と息を呑む。

 ここだけ街と切り離されたかのようにクリスマスの気配のない、暗く静まり返った人気のない橋の上。ぽうっと灯ったスマホの画面に映し出されていたのは、『稲見恭也』の名前だった。

 きゅうっと胸が締め付けられた。

 思わず、その明かりを隠すようにスマホを胸に押し付ける。


 途端に、思い出したように心臓が激しく熱をもって波打ち始める。


 頭に浮かんだのはさっきの女性だった。稲見の本命だという女性――。

 そりゃそうだ、と深織は苦いものを噛み締めるように表情を歪めて瞼を閉じる。

 あんな現れ方をして、いくら勘違いだ、と言ったところで誤魔化せるはずもない。自分が彼女の立場だったら、到底納得はしない。

 あのあと……きっと、お風呂から戻ってきた稲見に問い詰めたに違いない。見知らぬ女が部屋に現れたこと。本命じぶんの存在を知るや、逃げるように去ったこと。浮気相手じゃないのか、と――。


 どうしよう……? いや、んだろう……?


 自分は――?

 稲見は――?


「……」


 ごくりと生唾を飲み込み、深織はそうっとスマホを胸から離す。

 まだ着信は続いていた。


 何を話すつもりで、電話してきたのだろう?


 好奇心なんて無邪気なものでもなく。怖いもの見たさとも違う。ただ、きっと……まだ信じたかったんだろう。暗がりの中、ポツリと灯るその無機質な光に、まだ希望を見出そうとしていたのだ。それに縋ることしか、今、深織にできることはなかった。


「――はい」


 スマホに耳を傾け、深織はそう強張る声を絞り出した。

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