第6話 本命

 だ……ダブルブッキング?

 思わぬ言葉が飛び出して、深織はキョトンと茫然とする。

 それがどういう意味なのか――まだ困惑する頭で深織が考えるより先に、女性は頭を抱えて盛大にため息つき、


「その様子じゃ……あいつから何も聞いてない、てことでしょ?」

「何も……?」

「こうなる、てこと! 私がいること――聞いてなかったんでしょ?」


 苛立たしさも露わにがなり立てられ、深織はビクッと身を強張らせながらおずおずと頷いた。

 いや、そもそも……と胸の中で言い添えながら。

 そもそも――稲見に内緒で来たのだから、何も聞いていなくて当然。でも、問題はそんなことではなくて……。


「こっそり、3P企てた、てわけでもないわね」と女性は赤茶色の髪を掻き上げ、じっと深織を値踏みでもするように見つめてきた。「そういうタイプにも見えないし……」


 未だに状況が掴めず、言葉も出ない深織。

 とりあえず、今、分かるのは、稲見の部屋に来てみたら……見知らぬ女性がいたということ。クリスマスイブの夜に……。深織の部屋から逃げるように去った後に……。

 つまり? つまり、どういうことなのだろうか? これはどんな意味を成すのか? 白黒つけよう、と行き着いた先で――稲見の部屋で――得た答えは……? この結果から見出すべき結論は……?


「あの……」と深織は胸元をギュッと握りしめ、声を絞り出すようにして訊ねる。「あなた……は……?」


 女性と目を合わせることもできなかった。そんな勇気が出なかった。突きつけられている、逃れられない現実に目を向けたくなかったのだろう……。

 躊躇うような間があってから、


「私……は、恭也のカノジョ。本命、てやつかな」


 マウントを取るようなそれではなく、どこか憐れむような声色だった。

 息ができなくなった。

 思いっきり、胸をグサリとナイフで突き刺されたような衝撃だった。トドメを……刺されたようだった。


「その様子だと……それも聞いてなかった?」と女性は追い打ちをかけるような優しげな声で訊ねてきた。「あいつ、利害が一致した相手としか遊ばないはずなんだけど……」


 遊ぶ……?

 その瞬間、深織の脳裏をよぎったのは――。


 ――深織さ……自分が『浮気相手』じゃない、て確証はあんの?


 まるで、すぐ隣に菜乃がいるかのようだった。今まさにそう言われたかのように、その声がはっきりと頭の中に蘇った。


「まあ、とりあえず……入る? 今、あいつ風呂入ってるから。戻ってきたら、素っ裸で正座させて、一応、言い分を聞きましょう」

「え……」


 ハッとして視線を戻せば、稲見の本命カノジョを名乗る女性が扉を大きく開き、どうぞ、と言いたげに顎をしゃくった。


 ひどく散らかった部屋だった。


 ベッドの上は、今まさに誰かが慌てて飛び起きていったかのような有様で。床には部屋着らしきものが脱ぎ捨てられ、部屋の真ん中に置かれたローテーブルにはファストフードの袋にスナック菓子。そして……ビールの缶がいくつも並んでいた。


 初めて見た、自分の恋人の――彼氏と人の部屋。それは、まるで誰か他の……まるで知らない他人の部屋のようだった。


 ああ……と深織はようやく悟り、諦めるように瞼を閉じた。

 全て、嘘だったんだ。

 お酒が苦手だ、と語っていたのも。寮の門限が厳しいから、と言っていたのも。自分だけを好きだ、と言ってくれたあの言葉も……。

 

「すみません……」と深織は俯いたまま、後退った。「間違い……でした。私の……勘違いです」

「は? 勘違い?」

「失礼します」


 ぺこりと頭を下げ、深織は踵を返す。「いや、ちょっと……?」と戸惑う声が背後からしたが、深織は無視して――いや、反応する余裕もなく、逃げるように足早に廊下を進んだ。

 とにかく、この場を一刻も早く離れたかった。

 じわりと滲む視界で廊下の角を捉えると、深織は駆け出さん勢いでそこを曲がった。

 そのときだった。


「うおっ……!?」


 ドン、という衝撃とともに、目の前が一瞬真っ暗になり、ぐらりと頭が激しく揺さぶられた。

 何かに……いや、誰かにぶつかった? ――そう理解したときには、深織は尻餅ついていた。


「ごめん! 大丈夫!?」

 

 視界の端でスリッパが見えた。ぶつかってしまった人だろう。

 散々だ……。踏んだり蹴ったりだ……。

 涙がじわじわと込み上げてきて、深織は心配するその声に顔を上げることもできなかった。

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